【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(2)府中街道 中原〜登戸

二ヶ領用水

第2回 中原〜登戸

第2回

今日は武蔵小杉から登戸へ向かう。途中で何度か脇道へ逸れるが、甲州街道と合流するまでは基本的に旧道を拾いながら府中街道を行く。

中原〜登戸

小杉宿から溝口宿

中原街道と油屋の庚申塔

府中街道は多摩川と並行して川崎市を縦に貫き、川崎〜府中間で数本の主要な街道と交差する。交差地点は交通の要衝として賑わい、宿場を形成していた。これから向かう小杉もそうした宿場のひとつだ。

交差するのは中原街道。東海道が整備される以前は江戸と平塚中原(平塚市)を結ぶ主要街道であった。小杉宿は中原街道の宿場。現在の小杉に宿場の名残はないが、道路の幅を見るとここが古くからの道であることが分かる。

小杉宿周辺

中原街道を多摩川寄りに少し進むと道路幅が狭くなり、庚申塔や供養塔が保存されている。道りがクランクしている箇所(カギ道と言う)の西にあるのは徳川将軍家の休憩・宿泊所であった小杉御殿の跡だ。

庚申塔は「油屋の庚申塔」と呼ばれる。台石の三方向に「東江戸道」「西大山道」「南大師道」と刻まれているというが、時代を経てすり減ってしまっているのか判読できない。「油屋の」というのは庚申塔の裏に油を売る店があったためで、道路の角にあるので道しるべの役目も果たしていた。

油屋の庚申塔

油屋の庚申塔は道路のカド

 

油屋庚申塔台座

台座の文字はよくわからなかった

庚申塔から150mほど行った先には供養塔がある。解説標識は「小杉駅と供養塔」。「駅」は宿場のことだ。こちらも台石に文字があり、「東江戸」「西中原」と読める。「西中原」とあるのを見て、すぐそこなのに?と思ったが、これは平塚中原のことだった。

小杉供養塔

供養塔はバス停の脇にひっそりと保存されていた

 

供養塔台座

上と下が欠けているが何とか読める

庚申塔は天保十四(1843)年、供養塔は弘化五(1848)年に置かれたというから、例の道中記を残したタテカワ講の一行は目にしていないはず。翌々年以降の登拝グループだと「やあ、こんな所に庚申塔が!」という会話があったかも知れない。

小杉御殿

小杉御殿跡はどんな所かと見に行ってみたが、祠がぽつんと残されているだけのシンプルな遺構だった。訪れるなら西明寺とセットにする方が良いらしい。小杉神社の前を通って油屋の庚申塔へ戻った。

小杉御殿祠

朱塗りの鳥居目印。行けばすぐわかる

泉澤寺と高願寺

小杉十字路では二ヶ領用水に架かる神地橋の手前を用水に沿って北へ行く。

神地橋

神地橋わきの遊歩道を行く

 

二ヶ領用水

用水沿いには木々が植えられている

用水を夾んで隣り合った泉澤寺と高願寺は、どちらも由緒のある古刹だ。ちょっと期待しながら行って見たら、泉澤寺の山門はこちら側からは見えず、高願寺は丸ごと建て替え中(?)なのか、本堂がなかった。泉澤寺はそのむかし夏の施餓鬼のころ門前に市が立ち、それが今の世田谷のボロ市と繋がりがあって云々という面白い話があるのだが、今は富士山を目指して先を急ぐ。

ところで、今回の府中街道歩きは、川崎市立多摩図書館編『府中街道 つけたし・大師道』(非売品)という本を基に歩いている。とくに旧道のルートについては全面的にこの本に頼っている。

府中街道・付・だいし道

非売品なのが残念。図書館で借りないと読めない

 

府中街道付大師道本文

本文はひらがなの使い方が独特。文字がくねくねしているのがおもしろい

サイズは新書判で昭和49年の発行。手書きの地図やよれよれのタイプ印刷の文字に味わいがあってかわいらしい本だ。内容は明治の終わりから大正、昭和にかけての街道の様子を、沿線で暮らす人々から聞きとってまとめたもの。読んでいると見に行きたい場所がどんどんが増えてしまう。

曲がりくねる多摩川

高願寺からサッカースタジアムや市民ミュージアムのある等々力緑地へと向かう。緑地をぐるっと取り囲む道路は、小向の旧道と同じように元多摩川の堤防に付けられた道路だ。

曲がりくねる多摩川

多摩図書館『府中街道 つけたし・大師道』と小塚光治『川崎史話』をもとに作成したイメージ

大きな時間の流れで言えば、多摩川はわりと最近まで今の姿から想像できないくらい曲がりくねって流れていた。水が出て氾濫する度に多摩川は少し或いは大幅にその流れを変え、人々は堤防を作ることを繰り返してきた。宮内の土手道付近の人々はこの辺りを「八つ目土」と呼んでいたそうだが、それは作った土手が何度も洪水で破られ、その度に作り直してきた土手が8コ目だということからきているという。

『府中街道 つけたし・大師道』にはそんなことも書いてある。なるほどねえと思いながら、春日神社、常楽寺(まんが寺)の前を通り、「観音さまの道」と呼ばれた旧道に入っていく。

観音さまの道
観音さまの道

これが観音さまの道

「観音さま」はGoogleマップに金井観音として載っている。小さな観音さまではあるが、宮内周辺の人たちにはとても大切なもので、子が生まれると将来の幸福を祈って常楽寺とこの金井観音へお参りしたという。

祠に草鞋が下げてあってそれが少し気になっていたのだが、やはりそれには謂われがあった。この観音さまには「足をよくする力」があり、むかし生麦から来た魚屋が足を痛めてしまったが、観音さまに助けを求めたら歩けるようになったという「ふむふむ」なエピソードがある。タテカワ講の一行も、草鞋がお供えしてあるのを目にして手を合わせたかもしれない。

金井観音

通りかかった時は造成工事中で養生シートで囲われていた

 

金井観音の草鞋

草鞋が下げてある

宮内の渡し

宮内の渡しは、どんな所かと期待しながら土手の上に出てみたら、広い河川敷に野球のグラウンドが整備されていて川の流れは全く見えない。蕩々と流れる川面を見て「ここが宮内の渡しかぁ」と遠い時代に想いを馳せるつもりだったのだが、遠回りして損した。そして『府中街道』をよく読んでみると、宮内の渡しが設置されたのは大正に入ってからだというではないか。むむ。勝手に思い込んだ自分が残念だ。

宮内渡しへの道

渡し場へはこの道を行く

 

宮内北側交差点

階段を上がると多摩川が蕩々と流れているはずだったが・・

 

宮内の道路

堤防跡の道路はきれいなカーブを描いている

大山街道、溝口宿から登戸宿

溝口周辺
下野毛の石碑

第三京浜まで来ると再び旧道が現れる。そして例によってここにも石碑があり、道しるべと地神塔、庚申塔、供養塔、馬頭観音が保存されている。

下野毛の石碑

大小七つの石碑が並んでいる

 

下野毛道しるべ

正面に「西八をうし道」と刻まれている

この三叉路は、大山へ雨乞いに行くときの集合場所で、辺りは欅の木がが繁って鬱蒼としていたという。タテカワ講が通った頃はもっと寂しかったかもしれない。

溝口旧道と大山ふるさと館

北見方から二子、溝口にかけては、旧道がわりと長めに残っている。東急田園都市線の高架をくぐった先が大山街道。タテカワ講が最初に休憩した溝口宿だ。宿場の中心は宗隆寺のあたり。

「大山街道ふるさと館」は閲覧図書が興味深かったがあまり時間が取れず、タイトルを眺めるのみで後ろ髪を引かれながら先へと進んだ。

溝口旧道

旧道はすっきりした道路になっている

 

大山街道ふるさと館

ここで休憩。大山街道ふるさと館

子育て地蔵と円筒分水

溝口宿を出て国道246の下をくぐると、街道は西寄りにルートを変える。平瀬川の手前に子育て地蔵と二ヶ領用水の円筒分水がある。

円筒分水は用水の水を一定の割合で分配する利水施設。昭和になって作られたもので江戸時代の遺構ではないが、よく考えたものだと上から目線で感心してしまう。子育て地蔵ともども「ふむふむ」と「ほほう」のストーリーがあるが今はパス。二ヶ領用水にはとても長い物語があってひじょうに面白いので、そのうちじっくり歩く予定だ。

子育地蔵

子育て地蔵は、その名のとおり子どもを育てるお地蔵さま

 

円筒分水

円筒分水ができる前は分水桶がその役目を果たしていた

下綱松と松濤弁天

街道は南武線の久地駅で踏切を渡ると長尾に差し掛かる。左側は高台になっているが、そこに下綱(さげつな)の松と言って、オトナ4人が手を回してようやく届くくらいの松の大木があった。名前の由来は、河原の戦場へ向かう武士達がこの松に綱を下げて伝い降りたという『新編武蔵風土記稿』の故事によるが、もっと時代が下るとこんな話が登場する。

文政五(1822)年 6月のこと。多摩川は大洪水を起こし、上流から村へ濁流が押し寄せてきた。高台へ避難しようとする村人に土砂や瓦礫が襲いかかる。夜になりふと見上げると松から白い布が降りてくるのが見え、村人は無我夢中でその布を伝って難を逃れた。一夜明けて松の所へ行ってみるとそこに布はなく、白いヘビがいたという。

その松の大木があったとされる場所に鎮座するのが松濤弁天だ。

武陽玉川八景之圖

「武陽玉川八景之圖」左手の崖の上に下綱松が描かれている

この話には続きがあって、弁天さまが御利益をもたらすという噂が広まり、江戸から町人や武士が老若男女ひっくるめてドッと押し寄せた。賽銭箱の底が抜けるほどの勢いだったという。その人出を目当てに多くの茶屋が商いを始め(84軒も!)、しまいには見世物小屋まで現れたという。天保二(1831)年のことだ。

しかしあまりにも人が多く集まるので幕府は風紀を乱すとして参詣を禁止し、松を切り倒して茶屋も片付けさせた。


話はどんどん脇に外れるが、当時、弁天人気にあやかって見世物芸人たちをもっと大勢呼び寄せようとカネ集め目的で村の山林の木を売り払った者達がいた。

事を企てたのは平尾村(稲城市)、原町田、三輪(町田市)上麻生、片平、岡上(川崎市)各村の若者衆という。私が富士山登拝のルート決めで参考にした早野講は早野村だ。ここに名前こそ出てこないものの早野は三輪や上麻生、岡上と隣接している。たまたま関心がなかったのか、別のグループに属していて無関係だったのかは分からない。しかし機を見るに敏というかお調子者というか、ふ~ん、そういう土地柄の人たちだったのですね、というネタではある。何の根拠もないですけどね。

ちなみにこの者達は勘定奉行に捕縛されてこっぴどく叱られ、帰村を許されたものの3名が牢死したというから幕府も本気だった。本来は治安維持目的で設けた組合村制度を彼らが勝手に利用したのでカチンときたらしい。

そんなこんなで、松濤弁天へも寄り道をする。市営緑ヶ丘霊園の一画にあるが、もちろんそこは高台になっている。階段は急だ。数えたら103段あった。登り詰めると右側に白い鳥居と祠がある。御神体は白い蛇だ。よく掃除され、手入れが行き届いた弁天さまだった。

長尾の高台

弁財天はあの高台の上

 

松濤弁財天

今も傍らに松が植えられている

船島くつかけ稲荷

船島のくつかけ稲荷は宿河原堰のやや下流、堤防の外側にある神社だ。河川敷にもかかわらずその一画だけは堂々と木が繁り、意外と長い参道には灯篭や狐が向き合っている。

元は対岸の狛江の道祖神や猿田彦命を祀った事に由来し、それが明和8(1493)年というから創建はかなり古い。歴史が長いだけあって何度も大規模な洪水に遭い、一時は川の中の島に取り残されるというピンチも乗り越えて現在の場所に落ち着いた。

くつかけ稲荷と云われるわけは、参詣する人々が藁ぐつに願掛けをするからだ。

願いごとがあるときは、拝殿にある藁ぐつをひとつ持ち帰り、願をかけて軒先に吊るしておく。そして願いが叶えられると新しいくつを作って倍にして返納するという。

参道には井戸があって、汲むとちゃんと水が出る。手水舎の近くに井戸があってもおかしくないが、それが河川敷というのがちょっと珍しいように思う。これってもしかして川の水?と思ったが、そんなわけないか。でも、どうなんだろう?

船島くつ稲荷

左手に見えるのが井戸

 

くつかけ稲荷の藁ぐつ

今も藁ぐつが下げられている

くつかけ稲荷を後にラストは登戸浅間神社の富士塚へ立ち寄り、登戸駅で行動を終了した。寄り道が多い一日だった・・かな。

2018年6月2日。歩行24.4km 31,829歩。 

歩行通算41.1km 53,472歩

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