【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(4)甲州街道 府中〜高尾

立日橋

第4回 府中〜高尾

第4回

さて、いよいよ甲州街道に合流。江戸の市中と富士山をつなぐメインルートだ。

江戸の富士講が、富士へ行くための通路は二つあった。一つは内藤新宿から甲州街道を府中、八王子とたどっていくもの。もう一つは中仙道の下板橋から練馬に切れて、田無を通って府中で甲州街道に落ち合う道中である。(岩科小一郎『富士講の歴史』)】

富士講の一行は甲州街道を大月まで進んで南に折れ、富士道をたどって登拝の拠点となる吉田の御師宅を目指した。

4回目は府中から日野、八王子を通って高尾までの行程。私にとってはそこそこ距離があるが、中途半端なところで終わると後がつらいので今回はしっかり歩く。

富士山道しるべ

府中から富士吉田までの参考書は、富士吉田市歴史民俗博物館『「富士山道しるべ」を歩く改』(富士吉田市教育委員会)と、今井金吾今昔三道中独案内-日光・奥州・甲州(JTB出版事業局)の2冊。持ち歩き用にはコンパクトサイズの、五街道ウォーク・八木牧夫『ちゃんと歩ける甲州街道-甲州道中四十四次』(山と渓谷社)を使用。ルートは各書によって若干相違があるので、いいとこ取りで面白そうな方を選んでミックスした。

大國霊神社から日野渡し

甲州街道1(府中〜日野)

大國霊神社

先ずタテカワ講の道中日記帳にあった「府中六所宮江参り」に倣って大国魂神社を参拝。

大国魂神社は六所宮という名前のとおり武蔵国府の斎場で武蔵国内の六社(小野、小河、秩父、杉山、金鑚、氷川)を合祀したものだ。前回のゴールと今回のスタート地点として2回訪れた。「起源は、人皇第十二代景行天皇41年(西暦111年)」と神社のHPにあるが、拝殿を前にすると自然と背筋をしゃんと伸ばして身仕舞いを正さなくてはという気持になる。

大國霊神社

ふるさと府中歴史館」は時間の関係でパス。大國霊神社を後にするとそこは府中市役所前交差点だ。高札場と問屋場跡を見ながら西へと進む。

武蔵府中熊野神社

番場宿碑、片町碑、本陣門、本宿村常夜燈を通過していくと熊野神社の前に出る。社殿のすぐ裏側に古墳があるが、国内最大・最古の上円下方墳で、1350年前の築造時を復元したものという。玉石で完璧に形成された墳丘は、街中にあるものとしてはかなり大きくて見た目のインパクトがすごい。

境内にある由緒碑によると、神社の創建は江戸時代の初期。旧本宿村の総鎮守であった。古墳の裏側にも鳥居があって、建立は「天明八戊申歳九月吉祥日」(1788年)と刻まれている。その鳥居を「正北から境内を守護している」と言っていることから、古墳は当時から神社とセットであったことがわかる。

街道沿いに古墳と神社がある江戸時代の風景を想像してみるとちょっと面白い。

熊野神社

参道はかなり長い

熊野神社古墳

神社の正面側から撮ったもの。玉石がきれいだ

日野渡し

甲州街道(国道20号線)は、渋滞したりしなかったりを繰り返しながら国立インター入口交差点から南へと折れるが、旧道の甲州道中はここでは曲がらず都道256号線を真っ直ぐ進む。

獅子宿碑、本田家の薬医門、秋葉山常夜灯などの遺構前を「ほほう」と「ふむふむ」で見学し、谷保天満宮を参拝。日野橋交差点を渡ると「旧甲州街道」という標識が出ているので、矢印に沿って下っていくと日野渡しに到着した。

日野渡し碑

日野の渡し碑

立日橋から多摩川

立日橋から見る多摩川はおだやか

日野渡しが甲州街道の正式な渡しになったのは貞享元(1684)年のこと。運行は3月から10月までで、冬季は水位が下がるため土橋を築いて渡った。文政七(1824)年以降は通年の渡船となり、大正15(1926)年まで242年間も現役で営業を続けた。運営は日野宿(明治以降は日野町)だ。

甲州街道古道

ところで、私がこれまで歩いてきた甲州街道(甲州道中)は、慶長6(1601)年の開設当初はもっと多摩川に近い別のルートだった。「甲州古街道といへる一路あり。常久村の南より六社宮の大門中間を過てこの宿(*府中宿のこと)に至り、日野宿の東小名満願寺と云所に出て往来せり」〔風土記稿〕という文書が『今昔三道中独案内』に紹介されている。

府中街道の時にも書いたが、多摩川は大きな氾濫を起こすと流路が変わった。田畑が水没するといった事は珍しくなく、時には村ごと流されてしまうこともあった。宿河原の「綱下げ松」も根拠あっての伝説なのだ。

甲州街道は幹線道路であり、頻繁に流されても困るのでもっと安定した河岸段丘上の地盤に作り直された。「古道」から「旧道」へ付け変えられたのだ。

甲州古道と間道

たぶんこんな感じ?

ちなみに『富士山道しるべを歩く』には、

「また、府中で南に折れる間道がある。分倍河原、中河原と進み、多摩川を「関戸渡し」で渡り関戸へ出て、一ノ宮から浅川を越えて石田へ向かい、日野へ辿る道も存在した。」

ということも書かれていたりして、府中から日野にかけてのルートはひじょうに面白い。

日野宿から八王子宿

多摩モノレールが走る立日橋を渡って都道149号線を行くと日野宿に入るが、その前に満願寺の一里塚へ寄り道してみた。

満願寺一里塚
万願寺一里塚

ちゃんと木陰がある!

一里塚は街道のキロ・ポストで、大きさ五間四方(約9 m)高さ1丈(約1.7 m)というサイズの規格がある。各地に現存する一里塚は、もっとぺったんこだったり盛ってあったりするものもあるが、元はこの規格どおりであったはずだ。

五街道の一里塚は、徳川家康が秀忠に命じて大久保長安が指揮を取り、10年がかりで整備されたというが、塚の規格を立案・決定したのがどんな人物なのか気になる。大久保長安なのだろうか?

というのも、一里塚のあのこんもりした形状は見る者の心和ませる。見つけた時の「お!」という感覚は、単純にうれしい。

てっぺんに榎(松や桜の場合もある)が植えられているのは休憩のための木陰を作ることと、根が張ることで塚が崩れるのを防ぐためだが、シンプルでありながらデザイン的にも私としては◎だ。

満願寺の一里塚には日野市による説明板が設置してあり、地図付きで満願寺と日野が渡し場をバトンタッチした経緯が解説されている。

日野宿

日野宿

日野宿は本陣、脇本陣が各1軒に旅籠20軒と比較的とコンパクトな宿場だった。

宿場の江戸口は新奥多摩街道入口交差点近くにある馬頭観音で、京口は日野駅先の坂下地蔵堂だと私のメモにある。しかしこれがどこから引っ張ってきた情報なのか思い出せなくて今困っている。地図に当てはめて測ってみると500mくらいしかなくて、参考書に書いてある東西九町という街並みの記録と合わない。私のメモよりももっと長くて1kmほどあるはずなのだが・・。

日野宿といえば「新撰組のふるさと」。都内に唯一残っている江戸時代の本陣建物は観光モードになっている。日野宿交流館、新撰組ふるさと歴史館、土方歳三資料館、更に満願寺一里塚の近くには近藤勇の生家もあり、幕末&新撰組好きなら時間をかけてじっくり見たいところだ。

日野宿本陣

さすが本陣。門構えが違う

本陣庭園

ひじょうに暑い日だったが、屋内は涼しい

幕末系のものを除くと、日野宿にある遺構は川崎街道入口交差点にある高幡不動尊道標。写真を撮ろうとするとすぐ傍にある看板が鬱陶しいが、それはまあ仕方がない。富士講一行が目にしたであろう社寺は八坂神社、宝泉寺、そして飯綱大権現と地蔵堂だ。宝泉寺から飯綱神社にかけての坂道は大坂といってかつての街道らしさが感じられる。

高幡不動尊道標

高幡不動への道標。

八坂神社

八坂神社は日野宿の鎮守。

宝泉寺客殿

宝泉寺の創立は1330年頃。本堂は平成13年に新築落慶した。

飯綱権現

「いづな社」こと飯綱大権現は高尾山とも関係が深い

ところで、今回は遺構があってもわりとあっさり通過するパターンが多い。富士山に関係があってもなくても街道歩きは面白いので沢山寄り道をしたいところだが、残念なことに季節が良くなかった。

6月の末にぱっと梅雨が明けていきなり真夏となり、やって来たのは猛暑の日々。「ふむふむ」とか「ほほう」とか言っていられるのは午前中の早い時間帯だけで、日中はうっかりするとそのまま行き倒れてしまうくらいの勢いで暑い。マジでやばいのだ。

富士山には登山シーズンがあるから、少なくとも8月の終わりころまでには麓に辿り着かないとタイム・アウトになってしまう。なのでやむを得ず歩きを続行したが、真夏の街道歩きは私は誰にもオススメしない。

八王子宿

というわけで、日野宿を後に国道16号バイパスの下をくぐってほんのちょびっとの旧道を歩く。富士見橋という古い橋があるが富士山は見えない。大和田橋で浅川を渡ると街道随一の規模を誇る八王子宿に到着した。

甲州街道1(日野〜高尾)

八王子宿は本陣2、脇本陣3、旅籠34軒と大所帯だ。街並みは東西三五町四間(3.8km)。宿場の名前は本来は「横山宿」というが、大小15の宿を合わせて八王子宿と称した。この辺りの経緯は今井金吾の『今昔三道中独案内-日光・奥州・甲州』に詳しい。簡単にいうと、横山、八日市、八幡の3宿が設置されたあと順次町が拡大されて大きくなり、あとで触れる千人町や本郷の町並みがそれらに続いたためさらに栄えた。

当時の八王子は桑都といわれ、養蚕や織物が盛んで毎月市が立って人が集まり賑わった。

「此宿毎月四日・八日・十四日・十八日・廿四日・廿八日・太織・糸わた・其外諸品之市立有之」(大概帳)

竹の鼻一里塚跡から八王子駅に向かう途中にある市守神社は、こうした市の取引の円満無事を祈願して創建されたものだ。今も毎年二月の初午の日には例祭が行われている。

八王子竹の鼻一里塚

(左上)竹の鼻一里塚後(右上)一里塚隣の永福稲荷神社。例祭は「しょうが祭」。縁起物として厄除けの生姜が売られる。(左下)市の取引の平穏無事を祈る市守神社(右下)八幡八雲神社は八王子宿の総鎮守。

千人同心

八王子は商業都市である一方、江戸の西方を守る砦としての役割も担っていた。

甲州街道が陣馬街道と分岐する追分付近に千人町という地名があるが、ここに旧武田家の家臣を中心とする千人同心という部隊が組織された。発足当初は250人だったが、最終的には1000人に増えて名前通りの組織となった。

千人同心は八王子の治安維持を任務としながら江戸の火消しや日光東照宮の警護も行った。東照宮の警護は「日光火の番」といって、頭1名につき同心50人というユニットで半年ずつ日光に駐在した。

八王子から日光までは約40里(160km)ある。それを3泊4日で行き来したというから、かなりのスピードだ。道順は八王子→多摩川→昭島市拝島→埼玉県東松山→栃木県佐野→例幣使街道→日光。

このルートはもともと織物の取引に使われていたものだが、彼らが頻繁に利用したので千人同心街道などと呼ばれた。またこのルートは北関東から甲州街道へ出る最短のルートでもあり、群馬や栃木方面からの富士山登拝にも盛んに利用された。

柿生村の早野講も村を出立するとまず八王子宿を目指し、甲州街道に合流した。江戸ばかりでなく各地からやって来る富士講の一行にとって、八王子は重要な宿場であった。

ちなみにタテカワ講は早朝に川崎宿を発って初日は八王子泊まり。また早野講は柿生村を出て八王子で昼食を摂り、その日のうちに高尾山の宿坊に泊まっている。富士講も千人同心に負けない早足なのだ。

追分から高尾駅

追分交差点を過ぎると街道は銀杏並木がつづく。正面に山が見えて街道の雰囲気が変わり、首都圏の市街地を脱しつつあることに気付く。高尾山が近づいてきた。

追分道標

追分の道標。写真が撮りづらい場所にある。

甲州街道銀杏並木

甲州街道の銀杏並木

多摩御陵入口交差点の先から旧道に入ると国道20号線のクルマから解放されて静かな通りを歩ける。途中で見かけたお地蔵さまは、生け垣の風情がなんとも微笑ましくてこの日一番の出逢いだった。

高尾手前旧道

静かな旧道。立派な板塀の家もある

地蔵

今井金吾も「かわいい」と言った石地蔵

暑さが和らいだ17時すこし前、無事に高尾の駅にたどり着いて4回目の歩きを終了。足が棒になるという言葉の意味がよくわかった。

2018年6月30日。歩行31.9km 41,000歩。 

歩行通算97.1km 126,313歩

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