【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(5)甲州街道 高尾〜相模湖

小仏から相模湖

第5回 高尾〜相模湖

第5回

さて、本日のメインメニューは高尾山だ。

甲州街道・駒木野宿から高尾山北面の蛇滝を経て薬王院を参詣し、尾根越しに小仏峠まで進んで相模湖へ下りる。

数日前に富士登山本番に備えてトレッキング・シューズを購入した。試し履きに丁度良い機会なので今回は新しい靴でと思っていたが、今後の行程を考えると、今日は相模湖(与瀬宿)から吉野宿を越えてもうひとつ先の藤野駅まで進んでおきたい。

そうなると山道より舗装道を歩く割合が多くなるので、靴底が厚いトレッキング・シューズでは辛い。ウォーキングかトレッキングか。迷っているうちに、そもそも、ひと山越えたあとでそんなにたくさん歩けるのか?という根本的な疑問も湧いてきてなかなか決まらない。

甲州街道2(高尾〜相模湖)

結局ウォーキング・シューズで行くという強気の選択をして高尾駅の改札口を出た。コンビニで水・食料を仕入れて国道20号線を西へ向かう。朝早いせいか車の通行は少なく、西浅川交差点で国道と別れると更に静かな道となった。

駒木野宿から高尾山山頂

駒木野宿と小仏関
駒木野宿碑

駒木野宿碑

駒木野宿は本陣1、脇本陣1、旅籠12軒の宿場だ。宿場ではあるけれど、関所のイメージの方が強い。関所は最初小仏峠に設けられたが「余り人家遠き山中ゆゑに」麓に下ろしたので小仏関とも言い、両方の名で呼ばれる。

駒木野バス停のすぐ後ろにちょっとしたスペースがあり、関所跡の碑が建っている。

碑の前には丸石と平石が置かれ、関所を通る者は丸石に通行手形を置き、平石には手を付いて頭を下げたという。富士講もここでは手を付いたのだろうかなどと思いながら進んで行く。

頭上を行く圏央道の下をくぐって道標に従い、左に折れて沢沿いの登山道に入った。

駒木野バス停

関所跡の碑

手つき石

奥が手形石で手前が手つき石?

富士山と高尾山、大山

タテカワ講の道中記二日目の行程に、「駒木野御関所通り、高尾山飯綱権現江参り、奥院江参り」とあり、そのあと上野原まで行くが、薬王院と浅間神社参拝はこの日のメインメニューになっている。富士山参詣に高尾山と大山はつきものなのだ。

ではなぜ高尾山や大山はつきものなのか?

ひとつには、これは大山の話だが、阿夫利神社の祭神・大山祇大神は富士山本宮浅間大社の祭神・木花咲耶姫と父子関係にあるから両方お参りするべきだというもの。親子であればセットで参拝するのは理にかなっているし説得力がある。しかしこの説明だと高尾山の出る幕がない。

もうひとつは、富士山に対して高尾山は前立て、大山は後ろ立てと見なされていたからというものだ。なるほど「前立て=前盾」「後ろ立て=後ろ盾」。つまり富士山(木花開耶姫)を前後から守っているからセットなのか。

若干の違和感はあったが「立て=盾」と単純にに解釈してとりあえず納得した。

ところがその後「前立て」「後ろ立て」とは、じつは武将の兜の前後にある飾りものの事であると知って目からウロコが落ちた。

「立てもの」は武将が己の武を誇り、存在感をアピールする一番目立つパーツだ。上杉謙信の日輪と三日月とか真田幸村の鹿の角などなど。戦国時代や武将に関心がある人からすれば何を今更と鼻で笑われるような基本知識であって、もう少ししっかり検索するべきだった。その点は少し恥ずかしいがまあ仕方がない。恥ずかしついでに言えば、ネタ元は五月人形の通販サイトだ。おかげでビジュアル的にもものすごくわかりやすくて100%納得した。

蛇滝から山頂へ

沢沿いの道は車止めから先で細くなり、三石仏を右手に見て石段を上がりきるとそこが蛇滝だ。

高尾山には水行道場が二ヶ所あって、蛇滝はそのひとつだ(もう一ヶ所は琵琶滝)。薬王院のHPにも案内があるが、申し込みをすれば一般人でも滝行を行うことができる。

蛇滝への道

木陰の道を行く

水行道場

水行道場

青龍堂

青龍堂

このコースは利用者が少なく静かな登山が楽しめるが、かつては多くの参詣者で賑わった。

蛇滝では昔から修験者や僧によって滝行が行われていた。しかし表参道側にある琵琶瀧ほど多くの人が集まる場所ではなかったため薬王院は蛇瀧を琵琶滝並みの人気スポットにしようと万延元(1860)年に再開発工事を行った。するとたちまち効果が現れて高尾山への参詣者が増加したという。

薬王院文書に残る発注の記録によると、工事の請負人は多摩郡三内村の石屋孫七。予算は金25両で工期は3週間。内金として5両を前払いする。6月17日から始めて7号7日までに仕上げること。追加金はなし。となっている。工事の内容は不明ながら石屋に発注したというところミソで、瀧行の場を整えたのではないかという。

蛇滝修行者たちが利用した「旅籠ふぢや新兵衛」」の軒下には今も信者の講札がびっしり貼ってあり、かつての賑わいぶりがよくわかる。

旅籠ふぢや新兵衛

旅籠ふぢや新兵衛

講札

軒下には隙間なく講札が貼ってある

高尾山浅間神社

蛇滝コースが静かだといってもやはり高尾山は人気の観光地だ。表参道を通るメインコースの1号路と合流するとドッと人が多くなり、スニーカーを履いて手ぶらで歩いている観光客やハイカーと一緒になる。修行は修行、観光は観光だ。高尾山は懐が深い。

浄心門を潜って男坂を進み、賑やかな権現茶屋前を通って石段を上がると薬王院に到着した。

飯綱権現堂

奥の院不動堂

奥の院

高尾山浅間神社

浅間神社

本堂、本社の先に奥の院不動堂があり、裏手には浅間神社がある。この浅間神社は北条氏康が天文年間(1532~1555)に建立したとされているが、外山徹『武州高尾山の歴史と信仰』(同成社)に興味深い伝承が紹介されているので引いてみる。

(戦国時代に)甲州・武州が乱国となり国境に関所ができ、富士山へ参詣する宿路が塞がれてしまったので、甲州吉田の御師たちは渡世に困り策をめぐらした。

武蔵国八王子に高尾山という行基菩薩開山の地があり薬師如来が本尊である。ここへ富士山の浅間大菩薩を勧請した。

吉田の御師はみな八王子へ移り、富士浅間が高尾へ飛びたもうたと披露した。すると東北・関東から、長年関所によって参詣できなかった道者らがこれを聞いてことごとく参詣し、八王子高尾山はたちまち繁盛した、ということである。

著者は、文献の裏付けがないので真偽は不明としているが、戦国という情勢が勧請の背景になったという図式は言い当てているのではないかとも述べている。

前述の蛇瀧再開発のエピソードもこの書籍から引いたもので、何気なく読み始めたら引き込まれて時間を忘れた。面白本という言い方は適切ではないだろうが、高尾山の歴史や信仰に興味がある人にはおススメの1冊。

山頂から小仏峠、相模湖

小仏峠

山頂からは縦走路を行く。小さなアップダウンが楽しい歩きやすい道だ。一丁平を過ぎて城山で長めの休憩を取ったあと、ゆるゆると下っていくと小仏峠に到着した。峠は標高560m。寛政7(1795)年建立の高尾山道道標がある。

稜線の道

峠の縦走路。歩きやすくて気持ちがいい

小仏峠から相模湖

小仏峠から相模湖を見おろす

高尾山道の道標

景信山へ向かうハイカーらと分かれて相模湖へ下りていく。この道を行くのは私ひとりなので「甲州道中」という標識が頼もしい。下りでミスコースすると元へ戻るには登り返さないといけないので間違えたくないのだ。

下り始めて気がついたのは、この道が紛れもなく街道であるということだ。登山道によくある雷光型のジグザグの折り返しがない。折り返しの部分は必ずヘアピンのように丸くラウンドしている。馬や駕籠も通れるように狭いながらも参勤交代仕様なのだ。地理院地図も良く見ると登山道(破線)ではなく道の扱いだ。

小仏峠下り

峠からの下り

地理院地図小仏峠

西へ下りていく1本線が甲州道中。県境沿いの破線は登山道だ。

甲州道中を参勤交代で利用したのは高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩。諏訪はまあわかるが高遠と飯田はホントに遠い。お勤めご苦労さまと言いたい。

土の道から舗装道に出てさらに下り、底沢バス停で国道20号線と合流した。相模湖を左手に見ながら進むとその先は小原宿だ。

小原宿

小原宿の本陣は清水家の建物を使用したので清水本陣ともいわれる。神奈川県下に26軒あった本陣の内で現存するものはこの一軒だけだ。中へ入るのはフリーパス。貴重な遺構のはずなのに管理人不在で無人だ。これでいいのだろうかと思いながらも座敷に上がり込んで隅々まで見学した。

小原宿本陣

中央道相模湖東出口の手前で国道を離れて坂道を上る。そのあと「えんどう坂」を下るはずだったが、曲がり角を通り過ぎて真っ直ぐ国道に出てしまった。歩道橋をくぐると「相模湖駅前」の標識が見えたので迷わず駅へ向かった。

もうひとつ先の藤野駅まで歩くというプランは無謀だった。ひと山越えたあとでそんなにたくさん歩けるか?という疑問の答えはノーだ。そして当然のことながらウォーキング・シューズは山道には合わない。下りではつま先が詰まるし、登山道の石が足のウラに当たってひじょうに痛い。今日の靴はトレッキング・シューズが正解だった。

次は相模湖から野田尻宿まで。

2018年7月14日。歩行23.4km 30,367歩。 

歩行通算120.5km 156,680歩

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