【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(7)甲州街道 野田尻〜富士道 田野倉

恋塚一里塚

第7回 野田尻〜田野倉

第7回

前回の歩きから中5日。再び野田尻宿にやって来た。今日は犬目、鳥澤、猿橋、駒橋の各宿場を辿り、大月から甲州道中と分かれて富士道に入る。

野田尻宿から鳥澤宿

 甲州街道4(野田尻〜田野倉1
野田尻宿

野田尻宿の西外れにある西光寺を回り込むように甲州道中を西へ進む。なだらかな坂の傍に一列に並んだ地蔵尊や庚申塔の前を行き、中央高速を北久保橋で渡ると荻野の一里塚跡。その手前には富士講の講碑がある。この講碑は一里塚から移設したものだ。

座頭ころばし

荻野集落を抜けて再び中央高速を渡ると、有名な犬目峠の「座頭ころばし」に差しかかる。犬目峠を越えるこの道はなぜか地理院地図に記載されていないが「旧甲州街道」の標識に従って山道に入る。

『富士山道しるべを歩く』に「座頭ころばし峠」(『官遊紀勝』)の絵図が紹介されている。柵はあるものの万が一転落したらおしまいというのが当時の人々の共通認識だったのだろう。各種紀行や案内書に難所として紹介されているこの峠も、今は木々が繁って崖の高度感が失われ、わりと普通に歩ける「ふむふむ」な名所になっている。

犬目宿

犬目は家数56軒。本陣2、脇本陣無し、旅籠15軒の宿場だ。高台に位置するため房総の海が見渡せ、富士山の眺めが良いことで知られていた。

犬目宿というと、私にはつげ義春の「猫町紀行」のイメージがある。あの『貧困旅行記』の「猫町」だ。「猫町紀行」は、そこが犬目宿なのかはっきりしないが〝人里はなれた隠里に迷いこんだ〝というエッセイで、時代は昭和のど真ん中。50年前の話だ。いまの犬目は隠里ではなくなってしまっただろうが、つげ義春が迷い込んだという町並みを見ることができる。

ガロの元編集者であった高橋慎三は『つげ義春を旅する』の中で「猫町」=「野田尻宿」ではないかと言っているが、その感じはよくわかる。野田尻の町並にはどこか昔の暮らしを思わせる懐かしさがあって猫町っぽいのだ。なのでこれはちょっと大袈裟にいえば、犬目vs野田尻のイメージ対決でもある。

では平成の犬目宿はどうであったかというと、そんな私の思い入れを受けとめるでもなく拒むでもなく、いかにも高台にある宿場らしく空が広々としていた。

町並を外れて宿場の枡形を右に直角に折れると、そこには曹洞宗の宝勝寺。広重の「甲斐犬目峠」と北斎の「甲州犬目峠」は、いずれもこの寺の境内から描かれたとされている。山門を通り過ぎて坂を下って行くと白馬不動の赤い鳥居が見えてくる。白馬不動は修験者の行場でタテカワ講も立ち寄った。

恋塚一里塚

恋塚一里塚は日本橋から数えて21番目。白滝不動からくねくねした県道をしばらく歩くと、先が見通せないカーブの先端にこんもりした小山がある。「!」という発見気分が味わえる一里塚だ。私が通りかかった時は小型のブルドーザーが塚の端っこを削っていて、まさかの撤去か、と思ったが「遺跡の補修工事を行っています」とのこと。

一里塚なので休憩したいが、現代に残る一里塚は鑑賞するための史跡であって腰をおろす場所ではない(ホントは登ってみたい)。ブルドーザーの作業を横目に解説板を読んで先に進んだ。

恋塚集落は犬目宿の馬宿。入口の小高い場所に山住神社が祀られている。小高くなっているのはここが塚であったからと『今昔三道中独案内』にある。

山谷坂(三夜坂)を下り、頭上を行く中央高速を見上げてさらに下っていくと久しぶりに国道20号線と合流し、鳥澤宿に到着した。

鳥澤宿

鳥澤宿は下鳥澤、上鳥澤と二つの宿場として数えるが、旅籠の数が若干違うくらいで本陣1、脇本陣2と規模的にはほぼ同じで双子のような扱いだ。問屋業務もひと月を前半・後半に分けて交代で行っていた。

甲州道中には鳥澤のような交代勤めや、上り専用・下り専用の片道勤めといった変則的な宿場が多かった。立地条件に恵まれない山間の街道ならではの宿場構成だ。東海道は53宿53次だが、甲州道中は江戸から下諏訪まで45宿32次となっている。

精進場から大月

精進場

鳥澤宿を西へと進む。ガイドによる見所は福地八幡神社、上鳥澤一里塚跡、本陣跡など。宿場を出て20分ほど歩くと桂川の精進場だ。精進場は富士講にとって重要なポイントで、登拝に際してここで水垢離をとった。

タテカワ講の道中記をみると「犬目江休、白滝山白馬不動江参り、山谷鳥沢江休、猿橋昼食、谷村松屋泊り」と書かれていてこの精進場には触れていない。当たり前すぎて書くまでもなかったのか、経費に係わらないから記載しなかったのか(道中記は基本的には会計簿)。『富士山道しるべを歩く』や『今昔三道中独案内』にはそれぞれ「精進場」、「しやうしんば」としっかり記載されているのだが。

精進場へは鮎釣りの友鮎販売所を目印に桂川へ降りていく。川原に近づくと講碑や馬頭観音、常夜灯などが並んでいるのでそれとわかる。川原へ降りるにはもう少し先の短いハシゴを使う。川では数人の釣り人が流れに立ち込んで竿を振っていた。

猿橋と『官遊紀勝』

猿橋は「日本三奇橋」として橋の方が有名だ。宿場としてのイメージはうすいが本陣1、脇本陣2,旅籠10軒という構成の標準的な宿場。タテカワ講はここで昼食をとり、早野講は大黒屋という旅籠に宿泊した。広重も立ち寄ってひと休みしている。

橋としての猿橋は、犬目峠の「座頭ころばし峠」と同様『官遊紀勝』に「猿橋川の景」として峡谷に架けられた刎橋が紹介されている。『官遊紀勝』の絵図は風景の描き方が面白い。うまく説明できないがなにか惹かれるものがあって作者のことを調べてみた。

作者は渋江長伯といって江戸中・後期の幕府に仕えた医官・本草学者であった。巣鴨で薬園管理を行いながら各地を訪れて薬草を採取した。寛政12(1800)年には半年間に亘る蝦夷地への薬草採取の旅に出て『蝦夷紀行』『蝦夷採薬記』等の書物を著した。

『官遊紀勝』は甲州に薬園を開設するため文化6(1809)年の9月から11月まで駿州、甲州、豆州、遠州の各州を訪れた際の記録。挿画が多用された全8巻の長編紀行だ。

渋江長伯は写生が得意で(本草学者には必須の技術)本人もスケッチを好んだという。草花や海産物の記録である『甲駿豆相採薬図』や106種類のキノコをスケッチした『西園蕈譜』などは国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。

またオランダからガラスの製法書(『西洋硝子製法書』)を入手してガラス器を制作したり、中国から緬羊を購入して薬園で飼育し(300頭まで増えた)、刈り取った羊毛で布を織らせたりと机上の文献研究にとどまらず実際に制作を行った。蝦夷まで出かけて行くフットワークの軽さと興味・関心の幅が広い能吏であり科学者であった。ちょっと変わり者のような気がしないでもないけれど、なかなか興味深い人物だ。

駒橋宿

猿橋宿を後に国道20号線を進み駒橋宿へ向かう。

旧道の途中、駒橋発電所導水管の手前から左に上がっていくはずの道をうっかり通り過ぎてしまい、桂川の手前で鋭角に折り返してJR中央線の踏切を渡った。人と自転車専用で幅員は1.2m。「第五甲州街道踏切」と書いてある。警報器もきちんと設置してあるけれど線路の段差に沿った凸凹に手作り感がある。都心の駅のアナウンスで「線路内に立ち入らないでください」と頻繁に繰り返されているが、その「やっちゃいけないこと」をやっているような気がする踏切だ。

駒橋宿は本陣も脇本陣もなく問屋と旅籠4軒という小さな宿場だ。桂川の渡し場があって岩殿山方面とを結んでいた。道幅と町並が甲州古道の面影を残している。厄王大権現の前には駒橋宿の表示板があった。

大月宿と富士山道追分

大月宿は本陣1、脇本陣2、旅籠が2軒。甲州道中は国道20号線の隣ををJR線に沿って進み、大月駅に近づくと商店街になっている。

タテカワ講と早野講の道中記には大月宿への記載はない。素通りしているようだが、大月橋の手前で追分を左に折れるといよいよ富士道に入る。気分的にはかなり高揚したのではないかと思う。すくなくとも私はちょっとした感慨を抱きながら追分の道標を眺めた。

ここから先は『富士山みちしるべ』に記載の宿場や集落を追いかけながら国道139号線に沿って進む。なるべく距離をかせいでおきたいので、できれば谷村まで行っておきたいと思いながら歩きはじめた。

ところが最初のランドマークである三嶋神社を通過したところでどっと疲れが出て撤収モードに入ってしまい、田野倉駅をゴールと決めた。行動時間8時間30分。とりあえず富士道最初の駅まではクリアした。次回は富士急線富士山駅がある上吉田まで。今日1日でだいぶ富士山に近づいた。

2018年8月4日。歩行29.6km 38,285歩。

歩行通算179.1km 232,346歩