【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(10)富士山-須走口五合目〜足柄

小富士からの富士

第10回 富士山 須走口五合目〜足柄

富士山登頂から1ヶ月後の10月4日。今日は前回の下山地点・須走口五合目から旧道を下って東口本宮浅間神社を参拝し、足柄駅までのコースを歩く。

須走口五合目〜東口本宮富士浅間神社

富士山(須走口五合目〜足柄)

なるべく早い時間にスタートしたかったので、バスの始発より前に御殿場駅からタクシーを使った。国道138号線からふじあざみラインに入って坂道を上って行くと、澄み切った青空をバックに富士山がくっきりと見える。「木山」は紅葉の盛りで木々が色づいて美しい。ほとんど人がいない駐車場で車を降り、東富士山荘前を通って小富士へ向かった。

小富士

小富士は樹林を抜けた先にいきなり開けたビューポイントだ。五合目の東富士山荘の標高が1,970mで小富士は1,979m。山頂にはこんもりした石積みと小祠があり、ピークの標柱もあって山としての扱いになっている。小富士だけを目的に来ても良いくらい眺望は素晴らしい。快晴無風の中、雲海や遠くの山々を眺めて朝の富士山を楽しんだ。

あまりのんびりしているとタクシーを使った意味がなくなってしまう(7,000円!)ので、遊歩道を戻って分岐を左に折れ、旧道を下り始めた。

旧道と富士箱根トレイル

旧道はふじあざみラインの北側に付けられた登山(登拝)道だ。要所に標柱と赤テープが設置されている。道に迷う心配はないが、足元ばかり見て歩いているとあれっ?ということがあるかもしれない。

このルートは富士箱根トレイルの一部にも指定されていて、須走口五合目から箱根の金時山まで歩き繋ぐことができる。総延長は43キロあり、県境に沿った尾根上のルートを行く。アップダウンがあって距離も長いので1日では歩けないが、トレランの猛者なら一気に踏破できてしまうのかもしれないなどと思いながら木々の間を抜けて行く。

御室浅間と雲霧神社

下り始めて15分ほどで御室浅間神社と雲霧神社の跡に到着した。ふたつの神社は五合目の古御岳神社に合祀されていて、ここには一対の紙垂と古いベンチが残されているのみだ。ベンチの背に描かれた「森永ミルクキヤラメル」の書体が時代を感じさせる。木製のベンチがまだ原型を保っているということは、多くの人々がこの道を利用していたのもそう遠い昔のことではない。

所々に倒木が横たわって道を塞いでいる箇所があるものの道そのものは歩きやすく行程はどんどん捗る。

台風24号

倒木といえば、まだ折れたばかりの真新しいものが目につくが、これは先週上陸した台風24号になぎ倒されたものだ。

台風24号は中心気圧960hPaという非常に強い勢力を保ったまま紀伊半島に上陸し、東北地方へ抜けた。記録的な暴風で各地に被害をもたらし、富士山ではふじあざみラインの馬返付近が大量に流れてきた砂礫に埋まって数日間通行止になった。このまま冬期閉鎖になってしまうのだろうかと心配していたら、土木事務所の頑張りによって無事に復旧した。もし通行止が続いていたら私の富士山の旅も違う展開になっていたはずだ。

馬返

旧道は狩休で一旦車道に出て再び樹林帯に入る。この辺りから木々の様子が少しずつ変化していく。足元に笹が見られるようになり、樹木が小ぶりになっている。同じ「木山」の部分でも標高によって林相は異なる。吉田口とも雰囲気が違うのはここが山腹の東側だからだろうか。

グランドキャニオンを覗きながら更に30分下ると馬返に到着した。地上界と神域との境目だ。地図上の旧道はまだしばらく続くが、この先は自衛隊演習地のため歩くことはできない。小富士遊歩道分岐から馬返まで1時間半の行程だった。

ふじあざみライン

馬返からは車道を歩く。くねくねと曲がるワインディング・ロードが3キロ。残りの3キロは首都圏ではあまりお目にかかることのない一直線の道路だ。道なりに下って行くしかないのだが、あまり律儀にトレースするのもシンドイので、一度だけ蛇行するカーブをショートカットして林の中を歩いた。途中にあるはずの一里松はどの木なのかいまいちよく分からず通り過ぎてしまった(と思う)。

ちなみにふじあざみラインは、自転車乗りには激坂として有名だ。ヒルクライム・レースの会場に使われるほか毎年5月に開催されるツアー・オブ・ジャパン「富士山ステージ」の会場にもなっている、徒歩だとあまり実感はないが、勾配は平均で10.5%。最大だと22%もある。この日出会ったサイクリストは2名で、車から自転車を下ろしてセットしている最中だった。

東口本宮富士浅間神社

東口本宮富士浅間神社の境内は鬱蒼とした木々に囲まれている。「不二山」の文字を扁額に抱く鳥居や社殿、神門をはじめ、富士講の講碑群や資料館など見るべきものは多い。私は裏参道から境内に入ったので、いきなり講碑群に出迎えられてその数に圧倒された。

須走

参拝を終えると須走の本通りを東へ向かう。かつて御師の町として栄えた須走は今も旅館の看板が所々で目に付く。

須走-富士山巡拝の道」という須走まちづくり推進協議会のマップを見ながら歩いたが、富士山東麓を俯瞰的に案内する総合的なガイドは少なく、このサイトは参考になった。本通りを10分ほど歩いて「須走本町」交差点の先を左折すると、周囲が開けて開放的な佇まいの伊奈神社に到着した。

宝永噴火と伊奈半左衛門忠順

伊奈神社

伊那神社は富士山の宝永噴火(1707年)による災害の復興に尽力した関東郡代・伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)の遺徳を偲んで昭和32年に建立された。

伊奈半左衛門忠順の奮闘ぶりや生涯は、新田次郎の長編『怒る富士』(文春文庫)に、史実とフィクションとを大胆に織り交ぜた壮大なスケールの歴史小説として描かれている。

怒る富士

噴火によって吹き上げられた大量の砂礫と灰は、偏西風に乗って小田原藩をはじめとする周辺地域に壊滅的な被害をもたらした。江戸市中は無論、遠く房総半島にまで灰は降り注いだ。

もっとも被害が大きかった地域は静岡県北西部の駿東郡で、村々は3メートルを超える降灰に覆われて田畑の農作物は全滅した。農民は幕府に救済を求めたが、給付米や下付金は十分とはいえず飢えに苦しむ。忠順は幕府から砂除けと河川改修工事を命じられていたが、予算不足と幕府の消極姿勢のため復興作業は進まない。4年の歳月が流れ、農民たちの餓死が目前に迫った正徳元(1711)年11月、忠順は自身の判断で駿府の米蔵から村へ米を運ばせた。

宝永噴火の災害復興に関する幕府の施策は古文書に詳細に記載されているが、この正徳元年の救済米については記録がない。しかし駿東郡の古老たちは、村が救われたのは忠順が駿府の米蔵から米を運んできてくれたおかげであり、彼はその責任をとって処刑されたと今も信じているという。記録には残らないが人々の記憶には残る忠順の決断…。

須走の町にはごちゃごちゃしたところがなく、電柱より高い建物もない。富士山がすっきりと見えて空が広くとても気持が良い町なのだが、その美しい富士山に苦しめられた歴史もあった。

きやり地蔵から足柄駅

伊奈神社を後に国道138号線に出て鎌倉往還を行く。「リサーチパーク入口」交差点から県道150号・足柄停車場富士公園線に入ると足柄駅までは一本道だ。ゴルフ場の間を抜ける区間は歩行スペースが狭くて歩き辛いが、きやり地蔵から先は左右に田圃が開けて気持ちの良い風景が続く。

きやり地蔵

輿樗地蔵は卓錘山(たくすいざん)東岳院という臨済宗建長寺派の寺院で、地元ではきやり地蔵の名で通っている。

由緒によると開山は688年。持統天皇の時代に役行者によって開かれた。きやり地蔵の謂れは、行者が輿に乗って木遣り音頭を唱えながら富士山に登り、当地に下山したことによる。当院の地蔵菩薩は「登山の人を多く利益する」ため、富士山へ登る者はまずきやり地蔵に参拝するのが古くからの慣わしだ。

瑞穂神社

きやり地蔵を出て歩き始めるとすぐ右側にあるのが瑞穂神社。田圃の中の杉木立ちが目印になっている。

瑞穂神社は創立年月不詳、宝永元年九月に再建されたと由緒にある。社名は、豊かに稔る稲穂に囲まれていることから明治40年に改称されたもの。境内のレイアウトからすると、拝殿の奥に富士山の姿があるはずだが、私が訪れたときは雲がかかっていて見えなかった。

一弊司浅間神社

一幣司(いっぺいし)浅間神社はかつて鎌倉往還の宿場であった古沢地区に鎮座する。創建は貞観5(863)年5月5日で、境内の由緒に大きく記された御祭神「木花開耶姫命」の文字がまぶしい。

国道246号線のすぐ傍という立地にもかかわらず境内は静かだ。社殿の配置は拝殿に向かうと富士山が正面にくる形になっている。御殿場から小山にかけての平野部では富士山との間に遮るものがないので自然とこういう形になるのだろうか。瑞穂神社の配置もこの形だった。

境内には現役を退いた石造りの扁額が地面に下ろしてあり、風雨に耐えてきた様子がありありと伺えて興味深い。

足柄駅へ

「古沢東」交差点を越えてさらに東へ進み、東名高速をぐるっと回り込んで鮎沢川を渡るとJR御殿場線の足柄駅に到着した。

2018年10月7日。歩行32.1km 40,986歩。

歩行通算268.6km 348,028歩

次回は足柄峠を越えて松田まで。

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