【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(11)矢倉沢往還<足柄古道>足柄〜松田

足柄古道

第11回 足柄古道 足柄〜松田

矢倉沢往還(足柄〜松田)

竹之下宿から足柄峠

足柄駅を出て、前回スルーしてしまった竹之下へ向かった。

竹之下は矢倉沢往還の宿場町で甲斐方面への分岐点でもあり、交通の要衝として栄えた。富士山登頂後に吉田口へ下山した早野講は、翌朝、御師宅を出て籠坂峠を越え、須走浅間を参詣した後ここ竹之下に宿泊している。

竹之下宿

竹之下宿を歩き始めて気がつくのは、宿場時代の屋号を表示している家があることだ。普通の個人宅なのだが、田中さんとか鈴木さんではなく和泉屋、江戸屋といった屋号が、表札のサイズで玄関先に掲げられている。地味ながら宿場のPRとして気が利いていて面白い。「ふむふむ」の素なのだ。

街道が鮎沢川に突き当たって直角に曲がる地点に常夜燈と半鐘があり、さらにその先には「竹之下古戦場」の碑が。建武2(1336)年12月、この地で新田軍と足利軍との合戦が繰り広げられた(箱根・竹之下の戦い)。この戦に至る経緯やその後の展開はWiki等にかなり詳しく書いてあったりするのだが、「源平合戦」や「関ヶ原の戦い」ほど分かりやすくはない。命がけで戦った新田・足利の両氏には申し訳ないとは思うけれども写真を撮っただけであっさりと通過してしまった。

常唱院の前を通り、千束橋(ここにも合戦の碑がある)を渡り、御殿場線の踏切を越えて馬喰坂を上る。

嶽之下神社

路傍の道祖神を見ながら坂を行くと古びた石段と鳥居がある。嶽之下神社だ。石段を登って畑の脇を進むと更に奥に石段があり、社殿が見える。社殿は平成12年の火災で焼失した後に建て替えられたものでまだ新しい。境内に由緒が記された書き物のようなものはなく、火災がきっかけで止むなく切り倒されたという樹齢200年の欅の一部が保存されている。

参拝を済ませて街道へ戻ろうと振りかえると、思いがけない風景に虚を衝かれた。富士山が真正面に見えるのだ。

浅間神社ではないので油断したというか、足柄峠へ向かうことばかり考えていたためすぐそこにある富士山のことを忘れていた(わけではないけれど)。嶽之下神社は富士山を眺めるにはとても良い場所で、理想的な遥拝所だ。参道が途中で曲がっているのも富士山と向き合う形に配されている拝殿の向きに合わせるためだ。なるほどねえとうなづきながら神社を後にした。嶽之下神社おそるべし。

唯念上人名号碑

杉木立の中を進み、県道と合流する地点に竹之下一里塚の碑。更に20分歩くと高さが3.8mもある唯念上人名号碑が立っている。

解説版によると、この石碑は天保年間に飢饉や疫病に見舞われたこの地の村人のために祈祷を重ねた唯念の書を刻んだものだ。唯念は遊行僧で各地で修行を積んだあと足柄へやって来た。よくまあこんな大きなものを運び上げたものだと思うが、地元の念仏講の信者らが力を合わせた結果だ。上人の名号碑の中では最大のもの。

石碑を後に県道を10分ほど歩き、赤坂古道という標識に従って旧道に入る。

足柄古道と矢倉沢往還

ところでいま歩いている矢倉沢往還は、律令制の時代に畿内と東国とを結んでいた足柄古道が元になっている。ひじょうに古くから歩かれてきた道で、どのくらい古いかというと、足柄峠から縄文土器が出土するくらい古い。万葉集に詠われ、『更級日記』を書いた菅原孝標女が怖い思いをしながら越えてきた道だ。

そう思うと何かそれらしい痕跡を探してしまうが、実際に歩いてみるとわりと普通の山道だった。古道は県道をショートカットして峠に向かって進んでいく。風化が激しくてほとんど判読できない芭蕉の句碑を過ぎると下の六地蔵、上の六地蔵が並んでいた。

足柄峠

六地蔵の先でいよいよ足柄峠に差しかかる。峠一帯は足柄城址公園として遊歩道が整備されている。城址へは裏から入る形になり、五の廓、四の廓、井戸跡、三の廓と少しずつ上って主郭まで行くと富士山が望める。この日は天気は良いものの富士山は雲に隠れていた。峠を越えればもう富士山は見えないと思うと少し寂しい。

新羅三郎

道路を挟んだ向かい側には「新羅三郎義光吹笙の石」。新羅三郎とは源義光のこと。奥州の乱鎮圧に向かった兄の八幡太郎義家(源義家)の助っ人として兵を出し、足柄峠を越える際にこの石に座って豊原時秋に笙の秘曲を伝授したという。

これだけだと何のことかわからないが、新羅三郎は文武両道で「戦乱の世にあっても風雅の心を失わず」笙を良く奏した。時秋の父・時元に笙の極意を授かっていたが、戦況が厳しいため自分の死によって秘曲が滅びることを案じた。よって秘曲の伝授という話につながる。極意を伝えると新羅三郎は時秋を京へ帰したという。

古今著聞集の説話らしいが、奥州の乱といえば平安時代の終わり頃のこと。さすが足柄古道に残るエピソードだけあって話は古いのだ。

足柄関

峠を少し下ると左に足柄山聖天堂、右に足柄関の跡がある。足柄関は昌泰2(899)年に盗賊対策のために設けられたが、設置場所がホントにここであったかどうかは不明。おじぎ石という台座があり、通行者が手形を差し出す時に手をついたものだ。甲州道中の小仏関にも手つき石という台石が残されていた事を思い出す。関所の必須アイテムのひとつだ。

足柄峠から矢倉沢宿

地蔵堂

峠を後に県道をショートカットしながら足柄古道を下っていく。道は歩きやすく、なにより車道から解放されるのがいちばんありがたい。

40分ほど歩くと地蔵堂に到着した。地蔵堂はかつてこの地にあった誓広寺という寺のお堂で、寺はなくなったが地蔵堂だけが残ったもの。

地蔵堂には駐車場やバス停があり、観光スポットになっている。地蔵堂のような地味なモノになぜこれほど大勢の人が惹かれるのかと思ったら、目的は金太郎と夕日の滝と万葉うどんだった。

地蔵堂トンネル

時刻は11時。今日の(今日も?)歩きは長丁場だ。足柄古道を辿って峠を越えてきたのでここから先も古道を行く。地蔵堂の前で道なりに坂を下った。前方から一眼レフを首からぶら下げた女性が歩いてきて、お互い同じようなことやってますねえ的な会釈をしてすれ違った。道はその先でT字路につきあたるので右に曲がって川を渡る。ん?と違和感を感じつつ歩いて行くと前方にトンネルが見えた。おお、道が違うじゃないか!

ショベルカーとオリンピック

これは足柄古道ではなく、県道御殿場大井線だ。がっかりしながらいま来た道を500mほど戻った。引き返す前に、このまま行ってしまおうかと思ったがやはりここは初志貫徹。しっかり足柄古道をトレースすることにした。

しかし、せっかく気を取り直して古道へ向かったにもかかわらず、金太郎遊び石を通過して長者橋を渡り、林道に向かうと工事中の看板が立っていた。しかもわざわざ「歩行者通行止」と書いてある。とりあえず無視して歩いて行くと、ショベルカーに乗った作業員に呼び止められた。聞いてみるとホントに全面的に工事中で歩行者も通行は出来ないという。

心の底からがっかりしてまた地蔵堂へ引き返した。約50分のロス。ここは一息いれて仕切り直しだ。「ふれあい処茶屋ふじや」に入って「金太郎うどん580円」を注文した。

店のおばさんに工事の話をすると、オリンピックだから道路を整備中なのだという。オリンピックと足柄古道との間にどんな関係があるのか?意味不明ながら聞き返すことはせず曖昧に返事をしてうどんをすすった。「がっかり」はなかなか回復しない。店内のラジオから天気予報が流れ、関東地方は急な雨と雷に気をつけるよう注意を促している。雷という言葉からなんとなく北関東を連想し、神奈川県には影響はないと思って聞き流した。

茶畑と並木

地蔵堂を後に再び道なりに左方向へ坂を下る。この「道なりに」というのが間違いの元で、本当はここを右に折れるのが正解だった。地蔵堂の手前にバイパスが出来ていたので一度右へ曲がったが、その事と勘違いしてしまったのだ。

が、それはまあ置くとして、県道御殿場大井線をせっせと歩く。足柄古道入口バス停を通過して徳川家康陣馬跡を左に見ながら2キロほど進み、標識に従ってまた足柄古道に入る。

単調な県道歩きのあとで見る古道の風景は心地よい。茶畑と並木の間を抜け、イノシシ除けのゲートを通過すると矢倉沢宿に入っていく。

矢倉沢宿

宿場に入っても道幅はさほど変わらない。矢倉沢宿は関所があったため関場と呼ばれ、今も地名にその名が残っている。数件の旅籠と店があったというが、いわゆる宿場的イメージは薄く、山あいのちょっとした集落という感じになっている。これが脇往還の宿場のスタンダードなのかもしれない。

関所を管理していたのは小田原藩。侍、番卒、足軽それぞれ2〜3人ずつという人員構成で通行人を調べていた。関所跡には石碑が建てられている。

矢倉沢宿から関本宿

みかん畑

矢倉沢宿を抜けて山道を上る。先ほどの茶畑と並木も気持の良い風景だったが、今度はみかん畑だ。振り返ると矢倉岳がよく見える。

要所に設置された標識に従いながら二つ目のイノシシ除けゲートを通過する。少しずつ標高を下げて麓に下りていくと足柄神社に到着した。

足柄神社

足柄神社は足柄峠に祀られた足柄明神が矢倉岳に移され、更に現在の地へ遷座して改称されたものだ。縁起には日本武尊の東征に纏わる伝承が記されている。

道を挟んだ向かい側には観音堂があり、道祖神や石仏・石塔が集められている。神社、観音堂ともに樹齢を重ねた樹々に囲まれて落ち着いた佇まいだ。

白地蔵と弘西寺

足柄古道は足柄神社の先で矢倉沢往還と合流する。

県道の脇に石垣を削ったスペースがあり、石仏・石塔と共に白地蔵が祀られている。地蔵は名前の通り真っ白だ。安産と授乳に霊験があるといわれ、御礼参りには尊体にうどん粉を塗る慣習があるという。なぜ白なのか?母乳=白かなと思うが、うどん粉といえば万葉うどんというのもあって(金太郎うどん!)、大切な収穫物だった小麦(粉)を塗って感謝の気持を表したのかもしれない。

弘西寺周辺には道祖神通り、大門通りと書かれた小さな表示があり、道祖神や石造物が集められている。知らずに角を曲がったら道祖神が並んでいて驚いた。

関本宿

弘西寺からは真っ直ぐな一本道を関本宿へ向かう。

関本は古代に置かれた坂本駅(さかもとのうまや)を元に鎌倉時代には既に宿場が形成され、江戸時代には道了尊最乗寺の門前町としても栄えた。所々に「関本宿を語る会」による説明板があり、本陣や高札場、旅籠について解説されている。「ふむふむ」の素だ。

大雄山駅と最乗寺方面への分岐となる竜福寺交差点を過ぎると街道は住宅地の中の静かな生活道路となる。

関本宿から松田

「左富士道」の道標

交差点から1キロほど進むと左後方から道が一本合流してくる。Y字型になった合流部に道標があり「左富士道」と刻まれている。そしてすぐ先の電柱の脇にも小さな道標があるので地図で確認しながら左へ曲がって先へと進む。

Y字交差を鋭角に折れて戻るように進むと谷峨・川村関方面に至り、二つ目の道標を直進すれば小田原まで行くことができる(小田原甲州道)。谷峨・河村関や小田原甲州道についてはまた別の機会に。

竹松、牛島、大文字橋

福田寺の門前を通過して何度か細かく角を曲がって橋場橋を渡り、矢倉沢往還を松田に向かって東へ進む。

途中、開成町の円通寺に富士塚があるので寄ってみようと思っていたが、ルートから外れていることと空模様が怪しくなってきたことが気になって次の機会にまわした。「ふれあい処茶屋ふじや」のラジオで聞いた天気予報を思い出す。空が急に暗くなったり、冷たい風が吹いてきたら…とまさにその状況なのだ。

小田急線新松田駅まであと少しのところ、酒匂川を渡る十文字橋の手前でとうとう雨が降り始めた。あと20分待ってくれたらよかったのに、と思いながらタオルを被ってせっせと歩く。暖められた地面から湿った空気が上昇し、それが冷やされると雨になって、というまるで理科の授業のようなにわか雨だ。傘なしでぎりぎりいけるくらいの雨だが、これがもしどしゃ降りだったら、自分の道間違いは棚に上げてオリンピックに八つ当たりするところだった。

2018年10月20日。歩行35.7km 46,319歩。

歩行通算304.3km 394,347歩  

次回は松田から大山の麓の蓑毛まで。

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