【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(13)大山街道 蓑毛道・田村道 蓑毛〜大山〜伊勢原

渋沢丘陵から大山

第13回 大山街道 蓑毛道・田村道 蓑毛〜大山〜伊勢原

小田急線秦野駅北口から朝イチのバスに乗り、終点蓑毛で降りる。今日は蓑毛道から大山に登り、表参道を下って大山街道田村道を辿って伊勢原駅まで歩く。

蓑毛から大山山頂まで

宝蓮寺

丹沢への登山口として蓑毛へは何度か来ているが、宝蓮寺や大日堂はまだ訪れたことはなかった。早朝のしんとした空気の中を宝蓮寺へ向かう。

宝蓮寺の開基は鎌倉時代後期。寛文9(1669)年に薬音寺から現在の名に改められた。道を隔てた反対側に仁王門、大日堂、御嶽神社、不動堂、茶湯殿(閻魔堂)があり、要所に解説板が設置されている。大日堂の左奥には金剛水という湧水があり、大山参拝者の水垢離や村の雨乞いの場になっていた。

今朝は人気がなくひっそりしているが、一夏10万人とも20万人ともいわれた人々がどっと大山を訪れたことを考えると、蓑毛道が大山参拝の裏参道であるにしてもこのような静かな光景はおそらくない。

不動堂への石段には「是従不動石尊道」と記された道標があり、夏の最盛期はもちろん春にも多くの参拝者が訪れた。

六地蔵

大山への分岐点には常夜灯が残されている。直進するとヤビツ峠、右へ行けば大山だ。「白石(100回登山記念碑)」を経て「さいの河原」の六地蔵まで約1時間、杉木立の中を淡々と登る。

さいの河原には六地蔵があるがどれも首がない。廃仏毀釈の名残で、代わりに石が載せてある。首なし地蔵というのは気味が悪いが、「まほら秦野みちしるべの会」のサイトにこんな文章がある。

首のない道端のお地蔵さんには、石の頭がのっている。いつ、だれが、のせたのか。何度も石は落ちたのだろう。そして何度も石はのせられたのだろう。人々は、目的地に続く道をとても大切にし、道を辿る人々の安全を道祖神やお地蔵さんに託したのである。

浦田江里子『大山道を歩く楽しみ

これは矢倉沢往還・善波峠での話だが、事情は同じで誰かが石の頭を載せたのだ。私は怖がりなので、このエッセイを読んでいなかったら、地蔵は見なかったことにして通り過ぎたとおもう。

二十八丁目と女人禁制の碑

六地蔵から15分ほど上ると二十八丁目。女人禁制の碑が建てられている。明治時代になるまで女性はここまでしか登れなかった。表参道側の女性の制限は阿夫利神社下社まで。

富士見台と来迎谷

本坂追分の道標(十六丁目)で阿夫利神社下社から来る本坂と合流すると登山道はにぎやかになる。10分ほど登ると富士見台(二十丁目)に到着し、富士山の姿を目にすることができた。冠雪した富士山は美しく、2ヶ月前に山頂にいたことを思うと感慨深い。

富士見台からさらに15分ほどで二十六丁目の來迎谷に到着する。來迎谷は古くからの景勝地で、ここから眺める富士山は広重の「不二三十六景 相模大山来迎谷」のモチーフになったとされている。

歌川広重『不二三十六景 相模大山 来迎谷』
【神奈川県立図書館 神奈川県郷土資料アーカイブより】

大山の西斜面はこれほど急峻ではないし、実際の富士山もこれほど大きく見えたりはしないのだが、あっ富士山だ!と思った瞬間の感激係数を加えると富士山の姿はこのくらい大きくてちょうど良い。富士山と大山は直線距離にして50キロ離れているので、実際には遠望する形になるのだが。

丁目の標柱

ところで、私が登って来た蓑毛からの裏参道は所々に丁目の標柱があって現在地を知る目安になるが、これは表参道の丁目区切りとは別物だ。

表参道の標柱は、阿夫利神社下社から山頂の本社まで一丁目から二十八丁目までに区切られている。通常は○丁目といえばこちらの丁目を示す。なので蓑毛から女人禁制の碑がある二十八丁目まで登って来て本坂追分で表参道と合流すると、十二少ない十六丁目になってしまう。

御中道

さらにもうひと登りした所が二十七丁目。標柱には御中道と記されていて、Yamakei Onlineのウェブ地図を見ると山頂を囲んで2/3周するルートがある。単なる山頂の巻き道かと思っていたが、大山にもかつては富士山と同様に御中道廻りがあったのだ。

山頂

二十八丁目の石鳥居をくぐって山頂へ。阿夫利神社前社と本社、奥社を参詣してひと休みした。

富士山に次いで大山にも登り、無事に両詣りが叶った。高尾山を合わせると三山クリアで富士講の定番コースを辿ることができた。

大山山頂から伊勢原まで

かごや道

山頂を後に麓へ下りる。登りでは気づかなかった二十一丁目の地蔵を通り過ぎて再び富士見台へ。十六丁目追分の碑から本坂を離れ、蓑毛方面へ戻ってかごや道を下った。

かごや道は文字通り籠が通るためにつけられた道で、標高700m付近にちょっとした坂があるほかは勾配は緩やかだ。20分ほどで阿夫利神社下社に到着した。

阿夫利神社下社

下社の境内は広く、社殿も本社に比して立派だ。ちょうど「秋の大山詣りキャンペーン」の真っ最中で、境内は老若男女で賑わっている。北条政子、足利尊氏、徳川家康・家光・吉宗らも参詣したというが、いずれも歴史上の大物ばかりでホンマかいなと思いながら、一杯100円のもみじ汁(豚汁)をいただく。

大山は平成28年に日本遺産に認定された。認定のストーリータイトルは ”江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」~” というもの。

歌川芳藤『相刕大山 諸人参詣之圖』
【神奈川県立図書館 神奈川県郷土資料アーカイブより】

〝木太刀を担いで〝とは納め太刀の風習のことで、源頼朝が石尊大権現に太刀を納めて武運長久を祈念した故事に倣ったものだ。参拝者は石尊大権現を参拝したあと木太刀を神前へ奉納した。

木太刀を納めたのは刀に関係のある大工や板前、鳶などの職人たちだ。小さなものは約24センチ、大きなものは3~7メートルもあった。木太刀は大きい方がご利益があるとされたため、競って大きなものを担いで来た。帰りには他の講中が納めた太刀を持ち帰ったので、大きな太刀を奉納したら、大きなものを持ち帰らないとバランスが悪いので、行きも帰りも大変だったのではないかと思う。

江戸期の大山信仰については、池上真由美『江戸庶民の信仰と行楽』(同成社)に詳しい。大山詣、江ノ島・鎌倉、金沢八景、箱根湯巡りなど江戸から手形なしで行くことができる行楽地への観光や参詣について「旅」をキーワードにまとめた書籍だ。

女坂

下社の長い石段を降りて女坂へ向かう。女坂には女坂七不思議という「ふむふむ」の素があり、ほど良い間隔で並んでいるので退屈しない。潮音洞、無明橋、爪切り地蔵など、解説板を読みながら少しずつ下っていく。

大山寺

15分ほど下ると大山寺(大山不動)だ。大山寺は、天平勝宝7(755)年に奈良東大寺の別当であった良弁(ろうべん)が開山した。

良弁僧正の生い立ちはなかなかカラフルだ。

良弁は相模国の国司・太郎大夫時忠の子として生まれた。世継ぎがおらず悩んでいたところに生まれた子であったため両親はたいそう喜んだ。しかし生後70日目に、飛来してきた金色の鷲に拐われてしまった。そのころ奈良に覚明上人という学僧がいた。ある日、山中の杉木に赤子の泣き声を聞いた。見上げると鷲が赤子を懐いていた。救出しようとしたが助けることができなかったので不動明王に七日間祈念したところ、八日目の朝に一匹の猿がやってきて赤子を差し出した・・・。

大山寺の縁起については川島敏郎『大山詣り』(有隣新書)に詳しく解説されているので一読をおススメしたい。

『大山寺縁起絵巻』と『大山不動霊験記』についてそれぞれ1章ずつ充てているほか、大山講、旅案内・日記、文芸、絵画、大山道など幅広い観点から大山信仰の通史を扱っている。

前述の池上真由美『江戸庶民の信仰と行楽』に比べると学術書ふうの内容だが、両書を併せて読むと、旅やフィールドワークに出かけたくなる。

なお川島俊朗は『大山不動霊験記』全15巻の翻刻を行っていて、「神奈川県郷土資料アーカイブ」で全文を読むことができる。

もみじ坂、豆腐坂、

八意思兼神社で男坂と合流すると大山ケーブル駅前に出る。旧参道である「もみじ坂」」「とうふ坂」をゆっくりと下っていく。昔と変わらない狭い道には講社名を刻んだ玉垣が並び、江戸後期に160軒以上あったという御師宿の面影が残っている。

とうふ坂の由来は、参拝者たちが豆腐を手のひらに乗せてすすりながらこの坂を登ったため。豆腐を歩きながら食べるという発想は我々にはないが、喉が渇いたらぺろっと口に入れてそのままスタスタ歩いていってしまうというのが粋だったのかもしれない。

良弁滝

良弁滝は良弁僧正が大山へ入山して荒業を行った滝で、滝に向かって右隣に開山堂。堂内に良弁の坐像がある。

歌川国芳『大山石尊良辨瀧之圖』
【神奈川県立図書館 神奈川県郷土資料アーカイブより】

良弁滝は来迎谷と同様、大山の人気スポットだ。広重や国吉らが浮世絵に描いていて、ふたりの良弁滝は「神奈川県郷土資料アーカイブ」で見ることができる。このサイトには前出の『大山不動霊験記』といった文献の他に、古地図や昔の絵葉書などもおさめられていて興味深い。

ところで国芳が描く『大山石尊良辨瀧之圖』はひじょうに賑やかで、精進潔斎というよりも水浴だ。

当時、山頂の石尊社へは必ず垢離をとって懺悔してから行くことになっていた。罪障のある身で登ると天狗にさらわれて身体を八つ裂きにされてしまうと信じられていたのだ。しかしそれにしては、この絵の参拝者たちが天狗を気にしているふうには見えない。千年前にここで荒業をおこなった良弁は鷲に拐われた過去があったのだけれども。

三の鳥居

三の鳥居は江戸の火消し「せ」組が建立したもので、門前町はこの鳥居までだ。

這子坂を下り、日々多神社(子安明神)、石倉神社を見ながら次のチェックポイントである石倉橋に向かう。

石倉橋の道標

石倉橋交差点には不動明王が鎮座する道標があった。現在は第二東名高速工事のため近くを流れる鈴川沿いの裏道に仮移転している。下調べの段階で、鉄パイプでがっちりガードされていることは知っていたが、実物を目の前にすると思ったよりインパクトのある光景だった。

四角い標柱には「右いせ原、田むら、江之島道」「左戸田、あつぎ、青山道」と記されている。石倉橋交差点は数ある大山街道の中でも青山道・柏尾道や田村道といった主要街な街道の分岐点となる重要なポイントだ。道標はいずれどこかに移設されるのだろうが、落ち着き先が気になる。

二の鳥居

道標から1キロほど進むと東名高速の手前に二の鳥居が見えてくる。二の鳥居は嘉永4(1851)年に現在の五霊神社の前に建てられたが、関東大震災で倒壊。昭和3年に再建されたものの事故により再度倒壊し、平成3年に現在の地へ移されて復元された。

嘉永年間の鳥居については前述の『大山詣り』、現在の鳥居と田村道・旧田村道との関係については中平龍二郎『キャーッ!大山街道!!』(風人社)に詳しい。

たとえば嘉永年間の鳥居を建立した石工は誰で、工期や費用はどれだけかかったのか。あるいは平成鳥居の向きと現在の田村道が走る方向が若干異なっていることについてなど。いずれも「なるほど」と「ふむふむ」の素がぎっしり詰まっている。

竜神通り商店街

伊勢原交差点で矢倉沢往還(国道246号)と交差し、伊勢原という地名の由来となった伊勢原大神宮を左に見ながら伊勢原駅に向かう。

火伏不動尊を左に折れてクランク状に曲がり、竜神通り商店街に入ると駅まではあと5分。やっと本日のゴールが見えてきた。

街道らしさが感じられるこぢんまりした商店街を歩いていると、一軒の鮮魚店の前で「この道は大山道です」という看板に気がついた。

石倉橋から『キャーッ!大山街道!!』のガイドを頼りに歩いてきたが、たとえば矢倉沢往還の足柄古道のように、このルートが大山街道(大山道田村道)であることを示す標識はなかったのでこれにはハッとした。

さらに店の間口の反対側には「富士山50km、大山9km、江ノ島18.5km」という標識も設置されている。地元の山である大山を案内するのは当たり前かもしれないが、ここで富士山を、しかもいちばん上に登場させているところが◎だ。やるなあ、龍神通り商店街。大山と富士山はやはりセットなのだ。歩きつないできた甲斐があったじゃないか、とひとりで盛り上がりながら商店街をぬけた。次回は伊勢原から田村道で藤沢宿まで。

2018年11月10日。歩行26.2km 33,929歩。

歩行通算358km 463,987歩

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