海老取川
旧穴守稲荷赤鳥居から弁天橋を戻り、堤防沿いの道を多摩川へ向かう。
海老取川は川と呼ばれていても、実際には運河だ。水の流れはなく潮の満ち干でなんとなく水が上がったり下がったりする状態。羽田漁師町の船を鈴木新田(今の羽田空港)を廻って遠回りすることなく大森方面と行き来するために作られた。開削者の左次兵衛にちなんで「佐次澪(さじみお)」とも呼ばれる。台風や洪水時の船の避難所としての役目も果たしていた。
海老取川と係留船
五十間鼻と無縁仏堂
五十間鼻
多摩川の手前で道は大きく右にカーブする。干潮時であれば堤防の外側に五十間鼻(カメノコ)が見える。
干潮時の五十間鼻(右/多摩川、左/海老鳥取川)階段の上が無縁仏堂
五十間鼻は長さ五十間=五〇間(90m)の石積みの沈床で、洪水のとき多摩川の水が鈴木新田に直接ぶつかるのを防ぐための水制だ。
石が敷き詰められた「カメノコ」
カメノコという通称は、敷き詰められた石が亀の甲羅に似ているから。鈴木新田は多摩川河口の低湿地に体積した肥沃な土砂を農地化するため天明年間に干拓されたもの。要島、扇島ともよばれた。大切な農地なので簡単に浸水されてしまっては困るのだ。
無縁仏堂
五十間鼻の「無縁仏堂」
五十間鼻(カメノコ)には海に張り出すように建てられた小さなお堂がある。これが五十間鼻無縁仏堂。傍らに設置された掲示に、関東大震災や東京大空襲の際に漂着した水難者を供養したものと記されている。
羽田の地には上流から多くの無縁仏が漂着したという。『空港のとなり町 羽田』によると、住民たちはそれらを大切に扱い、すぐさま供養した。供養を指揮したのは「富士講や御嶽講の行者さん、イチコと呼ばれた巫女さん」などの拝み屋たち。近所の人々が供養棚を用意することもあったようだ。
『奥東京人に会いに行く』p124
こういうところに富士講が登場するとは思わなかったが、羽田神社に立派な富士塚を築くような実行力がある講元・講員らであれば、率先して行動したのもうなづける。御嶽講も同様だ。
ちなみに「イチコと呼ばれた巫女さんなどの拝み屋たち」というのがなんだかよくわからない。調べてみたら、五十間鼻周辺には幽霊が出る(という噂)ことがあって、そんなときイチコらに原因を占ってもらっていたらしい。ムエンの霊が彷徨っているから供養してやらないと、というような話だ。
正蔵院 龍王院
霊は基本的に恐ろしいが、中でもムエンの霊は祟りが怖い。なので、ムエンを見つけたときは龍王院や正蔵院の住職に塔婆を作ってもらって供養した。風習というか、羽田の土地柄なのだろう。羽田や大森の周辺には五十間鼻のほかにも無縁堂や供養碑が多い。
憩いの場
また、慰霊云々とは別に、五十間鼻周辺は水神祭のとき沖へ進んで行く船を見送ったり、漁のための打瀬船の帆を洗って干しておく場所としても利用され、とくに用事がなくてもなんとなくより集まって近所同士で会話を交わしたりする場所でもあった。
初日の出の絶景ポイント
五十間鼻周辺は昔から景勝の地として有名で、それは今も基本的にはかわらない。海に向かって遮るものがない開放感あふれるロケーションは初日の出を眺める絶景ポイントになっている。もちろん富士山の遠望も。
玉川弁財天と水神社
玉川弁財天
五十間鼻から西へ。赤レンガ堤防方向に戻ると一段低くなった右手に玉川弁財天と水神社が見える。
玉川弁財天は要島に建立された社で、羽田浦沖を夜間に航行する船のための常夜灯でもあった。
海上安全の守護神とされ、江戸の商家や廻船問屋らの信仰を集めた。干潟に建てられた社の佇まいは『江戸名所図会』にも描かれている
玉川弁財天
羽田6丁目の御堂は、昭和20(1945)年の進駐軍による羽田空港接収によって移転・再建されたものだ。ちなみに玉川弁財天は龍王院の境外堂で上社・下社のうちの下社にあたる。「羽田七福いなりめぐり」の一社でもあり、神社のように思ってしまうが、御堂なので鳥居はない。
水神社と水神祭
水神社の創建は不詳。海上安全・大漁祈願の神社で毎年水神祭が催行される。
水神社
水神祭は江戸時代から続いている。1月・5月・9月の年3回おこなわれていたが現在は毎年5月11日の年1回。約2km先の海上に立つ「御神酒上げ棒」で神官が祝詞をあげて大漁と海上安全を祈念する。
お堂と神社は同じ境内にある
簡略化される前は、大漁旗で飾られた船から若者達が海へ飛び込み、競って泳いで「御神酒上げ棒」へ御神酒を備え、また泳いで戻ってくるという勇壮なスタイルで、悪天でも決行。雪が降っても中止されることはなかったという。
当時の生き生きした祭りの様子は、宮田登『空港のとなり町 羽田』で詳しく知る事ができる。無縁仏の供養と活気あふれる祭りを陰と陽に擬えて対比する解説は民俗学者ならではの視点だ。
渡し船と大師橋
羽田の渡し
階段を登って堤防へ戻り産業道路に架かる大師橋に向かう。
途中で多摩川と船溜りを仕切る羽田第一水門を見上げ、高速大師線の下をくぐると羽田の渡し碑がある。
羽田渡し碑
多摩川の渡し舟は江戸時代には上流の小河内から河口までの間に40ヶ所前後設けられていた。いちばん河口に近いのが羽田の渡し。直ぐ上流には大師の渡し(明治10年開業)もあり、どちらも農作業のための人の移動や物資を輸送するための生活交通機関として機能していた。
後年、川崎大師参拝の近道になるため利用者が増大し、その盛況ぶりは東海道の官道として六郷の渡しを運営していた川崎宿から、商売の邪魔になるとして公儀に訴えられるほどであった。昭和14年に大師橋が開通すると両渡しとも廃止された。
大師橋
大師橋は橋長が550mもあって周囲の景色を眺めながらゆっくり歩くと気持が良い。
斜張橋の大師橋。歩道が広い
ここは河口から2.5kmほど遡っているが、潮の満ち干の影響を受けて時間帯によってはかなり広い干潟が現れる。水が引いた場所でアサリを掘っている人がいるので、ここで潮干狩り?と意外におもうが、吃水域というのは私が漠然と考えていたより範囲は広い。
潮が引くと多摩川にも干潟が現れる
羽田と富士山
橋の上から遠く富士山が見える。
大師橋から富士山を遠望
大石始の『奥東京人に会いに行く』を読んで関心を持った羽田猟師町。多摩川の河口であり東京湾に面した海辺の町でもある漁業で栄えた町。
漁師は気象の変化に敏感だ。観天望気のよりどころとして毎朝必ず富士山を眺める。海が荒れるとわかったらその日は漁に出ず朝から一盃ひっかけて…なんていうことがあったかどうかわからない。しかし、ボク石を積んでミニ富士山の山頂に浅間神社を祀ってしまうことも含め、富士山は羽田の暮らしと深く結びついている。羽田道歩きのシメは富士山だった。
歩行:2019年12月14日
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