羽田道を歩く(1/3)するがや通り〜呑川

羽田道
なぜいま羽田道?

今回歩くのは羽田道。

大石始『奥東京人に会いに行く』(晶文社)を読んで、羽田漁師町が印象に残った。羽田といえば羽田空港。その認識が一般的だ。しかし現在の住所でいうところの東京都大田区羽田は鎌倉時代から漁業がおこなわれてきた経緯がある町で、羽田には今も漁業協同組合があり、漁業を生業とする人達がいる。

『奥東京人に会いに行く』

奥東京人に会いに行く』は「今まで語られてこなかったアナザーサイド・オブ・トーキョー」という切り口で、東京の山、川、海、島という四つの周縁部を「奥東京」と定義し、昔ながらの文化や自然と共生しながら暮らしを営んでいる人々に取材したルポルタージュだ。

本書にとり上げられたエリアは、たとえば東京都最高所の集落である奥多摩「峰谷地区」 、水神を祀った水神講が存続する「東小松川」、周囲を断崖絶壁に囲まれたすり鉢形状の孤島「青ヶ島」 など。

最初に書店で見かけたとき、紀行本にしてはずいぶんポップなデザインのカバーだと思った。が、大石始は元々音楽ライターで『関東ラガマフィン』という日本のレゲエ黎明期を取材した著作があることを知って納得した。ほかに『ニッポン大音頭時代―「東京音頭」から始まる流行音楽のかたち』、『ニッポンのマツリズム―盆踊り・祭りと出会う旅』といった著書もあって、本書で羽田の「羽田節」や佃島の「東京音頭」が取り上げられていることにもつながっている。

羽田道のルート

羽田道は旧東海道の内川橋から分岐して羽田に通じる道だ。大田区のHPには、内川橋付近に駿河屋という旅籠があったことから「するがや通り」とも呼ばれ、産業道路ができるまでは羽田で獲れた魚介を運ぶ生活道路であったと説明されている。

「今昔マップ」で産業道路開通以前の地図を見ると、現在の平和島あたりから羽田までつながる一本の道が確認できる。

羽田道は起点・終点ともにアプローチが楽でゆっくり歩いても行程は2時間ほど。旧穴守稲荷の赤鳥居というわかりやすいモニュメントにゴールすることもあって歩く人は多い。

『大田区海苔物語』

羽田道のルートはわかりやすいが、古い地図でたぶんこれだろうと見当をつけた道がホントに正しいのか確認しようとすると、意外なことに良い資料が見当たらなかった。

ネット等では調べきれずどうしたものかと思っていたら、大田区立郷土博物館発行の『大田区海苔物語』という大田区の海苔養殖の歴史について書かれた冊子巻末の「大田区海苔マップ」に羽田道がプロットされていた。郷土博物館を訪れて刊行物コーナーをぶらついていたら本書が目につき、図版がきれいで面白そうなのでついで買いしたものだ。こんなところに羽田道が登場するとは思っていなかった。

羽田道は魚介を運ぶ目的以外に、江戸から川崎大師への参詣道としても利用されて最盛期は人通りが多かった。また羽田道の街道としての歴史は古く鎌倉時代から歩かれてきた古道でもある。

内川橋

街道の起点となる内川橋へは京急線平和島駅が近い。改札を出て環七通りを渡り、旧東海道を10分ほど歩くと朱塗りの欄干の内川橋に到着する。橋のたもとに「旧東海道(美原通り)」という大田区が設置した解説版と、羽田道との分岐手前に道標ふうの角柱があり「するがや通り」の謂れが書かれている。

旧東海道より狭くなった一方通行の「するがや通り」を南へ下っていく。梵鐘が山門の上にある厳正寺(ごんしょうじ)と漁業記念碑に立ち寄って先へ進む。

厳正寺、漁業記念碑

厳正寺は文永9(1272)年の創建。羽田道に面していたため門前の人通りが多く、11月の報恩講の夜には門前にぼろ市が立った。海苔の養殖道具なども売り買いされたという。

漁業記念碑の「漁業」とは海苔養殖のこと。記念碑隣にある大森児童館は昭和40年に解散した大森漁業協同組合の跡地に建てられたものだ。大森漁業協同組合は東京都内最大の海苔漁協で、大森は品川とともに浅草海苔の中心産地であった。

三輪厳島神社

さらに南下すると三輪厳嶋神社に到着する。境内掲示の「大森海苔の守護神として古来より伝わる」と書かれた由緒は、ちょっと強引なこじつけ部分も含めてなかなか面白い。

遡ること800年ほど前、源義経が羽田の沖合を船で航行中嵐に遭ったが、当社に祈念したところ難を逃れることができた。無事を感謝した義経が社殿をととのえ、人々は当社を海面守護の神として祀った。ある日、水際に立てた注連竹に海苔が付着していた。食用になることがわかったので製造法を工夫し、以後、大森の海苔養殖が発展した、というストーリーだ。

「黒き苔生じければ、人々怪しみてこれを採り嗜めけるに味あり。生酢干かにして食せば殊に風味よし」。”嗜めけるに味あり”という部分が良いですね。

旧呑川緑地

旧呑川緑地は大森東から昭和島手前の呑川水門までの1.8km。新呑川によって直線化される前の呑川を埋め立てたものだ。昭和30年代に着工され、20年後の昭和51(1976)年に完成した。児童公園として或いは散歩道として大田区民に利用されている。

浦守稲荷神社

緑地を後に浦守稲荷神社へ向かう

浦守稲荷神社は元禄年間の創建。毎年6月の初旬に例大祭がおこなわれる。神輿や山車が出て大森南町内を練り歩いて賑わうというが、12月半ばの今は人の姿はなくひっそりしていた。

三輪厳島神社から旧呑川緑道、浦森稲荷神社にかけて羽田道は住宅地の中を南東方向に進んで行く。

新呑川に架かる末広橋を渡る。「海苔マップ」に末広橋から下流を藤兵衛堀と呼んだという注記があり「新呑川(旧藤兵衛堀)」と記されている。船が係留されているのを見て海が近いことを思い出した。海老取り川と合流する河口までは900mくらい。

呑川を渡る橋は、河口から2キロほど遡った清水橋のあたりまで、新呑川橋を除いてどれも太鼓橋ふうに中央部がすこし高くなっている。川を航行する船のためのもので、大田区の海苔養殖が盛んだった頃の名残ともいえる。

歩行:2019年12月14日

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