東海道川崎宿は知れば知るほど「ふむふむ」がテンコ盛り!(1/4)

川崎宿マップ 歩くこと
歩くこと

梅の花が咲きはじめた天気の良い2月のある日、前回の品川宿に続き、新たな「ふむふむ」や「ほほう」との出逢いを求めて旧東海道川崎宿を歩いてみた。

参考書は、杉江松恋・藤田香織『東海道でしょう!』(幻冬舎文庫)と今井金吾『今昔東海道独案内』(ちくま学芸文庫)だ。この2冊は東海道を歩くつもりがなくても読み物としてひたすら面白い。愛読書として何度も読み返しているが、やっぱり本書を手に街道を歩くのは楽しい。

今昔東海道_東海道でしょう

サブの参考書は東海道ネットワークの会21『決定版 東海道五十三次ガイド』(講談社+α文庫)を使用。説明が分かりやすくて紙質も良いので実用本として持ち歩くのに◎だ。

東海道53次ガイド

『決定版 東海道五十三次ガイド』は2色刷りの地図が見やすい

さて、早速街道歩きを開始!と行きたいが、ここで少々気抜けする話をしなくてはならない。

じつは川崎宿はうす味だ。

川崎駅から六郷橋まで行くと橋の親柱に渡し船のモニュメントや解説版があって、お!と思えるのだが、後が続かない。当時の面影を残すものが少ないのだ。杉江松恋は「川崎駅前一帯が昔の宿場だが、遺構のたぐいはあまりない。(『東海道でしょう!p29』)」とはっきり言っている。

なぜ遺構の類いが少ないのかはあとで知ることになるのだが、最初は予備知識なしに街道をストレートに歩いたので「ふむふむ」も「ほほう」も発見できず「ん?」のまま通り抜けてしまったというお恥ずかしい過去が私にはある。

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三輪修三『東海道川崎宿』トビラより

なので今回は念入りに下調べをし、満を持して街道歩きに臨んだ。一見地味な印象の宿場でもその背景を知ってみると川崎宿はじつに面白い。うす味というか、モノによってはほとんど味がしないといってもいい遺構や解説板もなんだか愛おしくなってくる。本当は旨味たっぷりで「ふむふむ」がテンコ盛りの宿場なのだ。

では、さっそく散策を開始。

川崎宿とは

パンフ_宿場の風景

「東海道かわさき宿交流館」のパンフより。遠くの富士山がイイ!

川崎宿は江戸を出立して品川の次、2番目の宿場として元和9(1623)年に設置された。

東海道の駅制が定められたのが慶長6(1601)年なので、宿場としてはかなり後の方だ。設置の理由は、品川宿と神奈川宿の間が離れすぎている(だいたい20キロくらい)というもので、宿駅伝馬制による宿場の負担が大きかったのを解消するためだった。

宿駅伝馬制というのは、ご存じのように徳川幕府が江戸を中心とした五街道を整備した際に、役人の公用旅行や郵便物・物資などの輸送を円滑に行うために設けた制度だ。

宿場に認定されると宿場の義務として、公武の宿泊施設である本陣・脇本陣を整備したり、役人や荷物を次の宿場まで無料で連れていったり運んだりしないといけない。そのかわり旅籠や茶屋を営んで商売をして良いことになっていて税制面での優遇措置もあった。

東海道宿プロット

公務の役人を連れて行くのは隣の宿場まででよかったけれど、出かけて行ったら帰って来なくてはならないので20キロ離れていれば往復で40キロ。朝イチで出発できれば日帰りも可能だが、役人は昼も夜もやって来る。それはあまりにもシンドイということで川崎宿が誕生した。

川崎宿は江戸を発って京へ上る旅人たちの食事や休憩所、あるいは箱根越えをしてきて江戸へ下る旅人たちの宿泊や六郷の渡しの控え所としての役割を担い、最盛期は本陣3ヶ所と旅籠72軒(時代によって変わる)を擁する立派な宿場だった。川崎が都市として大きく発展したのは明治時代終わり頃からの近代工業によるものだが、その礎は川崎宿にあったのだ。

川崎宿とかわさき宿交流館

川崎宿交流館周辺

街道散策のスタートは六郷橋からとしたいが、私が降り立ったのはJRの川崎駅。旧東海道は京急川崎駅の向こう側なのでこのまま行くと中途半端になる。よって、とりあえず街道のことは気にせず多摩川へと向かうことにする。

六郷橋と六郷の渡し

東海道を品川方面から歩いて来て最初に出会う大きな川は多摩川だ。国道15号である第一京浜に六郷橋が架かっているが、初代六郷橋は400年以上も昔の慶長5(1600)年に徳川家康によって架けられた。多摩川で最初の橋だ。

今われわれが目にする河川で、その規模が多摩川クラスのものであれば堅固な堤防が築いてあるのが当たり前に思うが、当時の多摩川にはきちんとした河川堤防はなかった。橋も沈下橋であったため、わりと簡単に流されてしまったという。その後も作っては洪水で流される(6回も!)というサイクルを繰り返すが、大自然の力には敵わない。経済的負担が大きいこともあって貞享5(1688)年の大洪水を機に橋が架けられることはなく、その後186年のあいだ渡し舟が使われた。

ちなみに貞享5年に橋が壊れたのは、洪水で流れてきた家がぶつかったため。橋が云々というよりも命がけで逃げ出さないといけないような大災害だったらしい。

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広重の「川崎」は江戸からの目線

六郷の渡しは明治7(1874)年に鈴木左内によって六郷橋(左内橋)が架けられて幕を閉じるが、じつはその後も何度か復活している。

鈴木左内の六郷橋は東京と神奈川をつなぐ念願の橋だったが、構造は沈下橋で従来と変わらず、しばしば襲ってくる洪水や橋桁に筏がぶつかる事故などのせいで4年後には失われてしまった。沈下橋は一度落ちてしまうと修理不能でどうしようもなかったらしい。多摩川はなかなか手強い川だったのだ。

その後、明治16(1883)年と大正2(1913)年にも橋が架けられたがいずれも流失してしまい、橋がない間は渡船でしのいだ。

しかしいつまでも渡し船に頼ってばかりいるわけにもいかず、ついに政府も本気で橋の構築に乗り出す。内務省が大正7(1918)年に河川改修事業に着手し、大正14(1925)年にようやく堤防間を結ぶ六郷橋を完成させた。

六郷橋

現在の新六郷橋は片側3車線。

六郷橋県境

川の中間部分には東京都と神奈川県との境がある。

現在の六郷橋(新六郷橋)は全長443.7m、幅34.4mで、最終的に完成したのは平成9(1997)年。家康の架橋から397年の歳月が経っている。そう思うとなんだかありがたいが、私が訪れた日は、当たり前のように本線を車がびゅんびゅん走り抜け、両脇の歩道スペースは自転車に乗った高校生や主婦、徒歩の人々(少数派)が行き交っていた。昔は昔、今は今だ。

旧東海道へ
六郷橋モニュメント

六郷橋下り車線側にはモニュメントが。

六郷の渡し解説

六郷橋上り車線側の歩道入口に解説がある。

六郷橋のたもとから旧東海道を歩き始める。橋の上り車線側の歩行者用スロープ入口に六郷橋と旅籠街の解説板があるが、これはふつうに歩いていたら見落とす。川崎宿全体に言えることだけれど解説板はわりと地味だ。よくいえば風景に溶け込んでいる。なのでそのつもりで探さないと「?」となる。

旅籠街の解説文中に出てくる万年屋とは当時非常に有名だった茶屋のことだ。『今昔東海道独案内』によると、

このような奈良茶飯店のうちで、もっとも有名だったのが万年屋という店で、〔膝栗毛〕でも弥次・喜多に「それより六郷の渉をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかけ」させ、喜多八は「コウ弥次さん見なせへ、今の女の尻じゃ去年までは柳で居たっけが、もふ臼になったぁ。どふでも杵にこづかれると見へる」などと無駄口をたたきながら、「ならちゃをあり切さらさらと」やらかしたものである。(本文p52)

とある。無駄口の内容は下ネタだけれどそこはスルーで。

奈良茶飯とは杉江松恋によると、

どういうものかと思ったら、逢坂妻夫『朱房の鷹 宝引の辰捕者帳』(文春文庫)に紹介されていた。「煎じた茶に小豆や栗、慈姑などを炊き込んだ塩味の飯」なのだそうである。(『東海道でしょう!』p29)

とのこと。また、『今昔東海道独案内』でも”茶飯に大豆や小豆などをまぜて出したもので、奈良の東大寺などで始めたのでこの名があるという。”と紹介されている。

東照

川崎屋東照は大正2年創業

どんなものか興味が湧くが、「東海道かわさき宿交流館」近くの和菓子の店「川崎東昭(とうてる)」のイートイン・コーナーで当時の味を模した奈良茶飯風おこわが食べられる。ちなみに東照はどら焼きがおいしい和菓子の老舗だ。

川崎稲荷社から田中本陣

川崎稲荷社

万年屋の解説板を読んだら川崎稲荷社へ向かう。路地を折れると右手に白い柵と解説板があり、奥に小ぶりの鳥居がある。この神社の社殿と鳥居は戦災で焼失したものを昭和29年頃に再建したものだ。享保元(1716)年に紀州藩主だった徳川吉宗が将軍になるため江戸へ向かう途中、ここで休憩した。

田中本陣通りの向こう

田中本陣跡

街道を更に進むと田中本陣があったとされる場所に解説板が設置されている。『今昔東海道独案内』によると、

ここの宝永年間(1704〜11)の主人、田中兵庫こと丘隅(きゅうぐ)は、当時疲弊していた川崎宿の復興に活躍、荒川や多摩川の治水にも手腕を発揮して、民間省要十七巻を著した経済学者兼土木家として、知られている。(本文p53)

とある。

田中本陣解説板

解説板を読んでみるとかなりしっかりしたストーリーが書いてあるのだが、唐突に田中丘隅と言われてもそんな人物おったかいな?というふうになりませんか、とみなさんを巻き込みたい。丘隅は享保の改革期に将軍徳川吉宗からも信頼されて数々の業績を残した川崎の偉人だ。日本史の教科書に載っていたのかもしれないが、う〜ん、思い出せない。

東海道かわさき宿交流館

田中本陣跡の解説を読んで街道を進むと、通りの反対側に東海道かわさき宿交流館がある。

交流館

東海道かわさき宿交流館は2013年開館

館内に入ると左手に畳3畳ほどの小上がり風スペースがあって、壁には万年屋の図が施されている。あの奈良茶漬けの万年屋だ。とてもキレイなので一見展示物っぽいが、交流館のホームページにも「万年屋風お休み処」と紹介してあるので腰をおろして一休みできる。

交流館のパンフレットは縦長の4つ折り

町歩きシートには航空写真を使った地図がある

交流館のパンフレットと「川崎宿解説まち歩き用シート」を手にしたら上階へと移動する。階ごとにテーマがあって、2階は「江戸時代にタイムスリップ」、3階は「江戸時代から現代へ」となっている。展示はどれも興味深いが、2階の中央にある宿場のジオラマはとくに見応えがある。

2階の壁には町歩きシートに使用されている地図がドーンと大きい

詳細なジオラマはスミからスミまでじっくり見たい

かわさき宿交流館は情報がぎっしりだ。

「ふむふむ」と「ほほう」の素が大量にあるのでゆっくり時間をかけて知識を仕入れよう。この後の散策で当時の宿場をイメージしやすくなる。また、ここで見つけた面白そうなものをピンポイントで探しに行くのもオススメだ。


ところでイメージといえば、当時の川崎宿どんな様子だったのだろうか。

次回は川崎宿の成立と役割についての話を。

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