川崎宿が成立したころ
ここでいったん町歩きを離れて川崎宿の歴史話を少々。
宿場となるには

これは明和2(1765)年ころの図
東海道の宿場の多くは鎌倉時代にはすでに宿駅としての機能を備えていた。そのため、慶長6年に伝馬制が布かれて宿場に指定されてもとくに支障なく運営することができた。しかし川崎宿は新設の宿場だったため開業当初はなにかと苦労が多く、宿場のノウハウを知る者がいなかったので、幕府は江戸の町人を募って川崎の旅籠を運営させた。

宿場の住民は商売経験のない農民たちだった
参勤交代が制度化されて東海道の交通量が増大すると品川~神奈川間の「距離が長くてツラい」問題が顕在化したため川崎宿が誕生したというのは前回書いたとおりだ。
ここにひとつエピソードがある。
東海道5番目の宿場である戸塚は、慶長6年の時点で川崎と同様に宿駅の認定を受けていなかった。しかし戸塚は江戸を出立するとちょうど行程の1泊目に位置するという好条件を生かして商売をはじめた。そのため藤沢宿から「街道筋でしきりと駄賃稼ぎをしている」と訴えられてしまい、それなら宿場として公認してほしいと幕府に働きかけてその地位を獲得した。
そうした積極的な動きに比べると、川崎がウチもぜひ!と意志表明をした気配はなく、わりと静かに開業した。
宿場の整備
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しっかり盛り土が施してある
ところで、宿場の整備はなかなか大変な仕事だ。
道を真っ直ぐにしたり土を盛ったりする土木工事のあと、今度は道路に面して一定の間口を持った屋敷割りをして町作りをする。普通の家は草葺きか板葺き。家々の裏には人家は作らず水田や梨畑、野菜畑になっていたが、これは大名や役人が物陰から襲われない用心のためだった。
このストリート・マップは佐藤本陣の地点から街道を江戸へ向かう方向への眺め。実際に現地へ行かないとわかりづらいが、旧東海道の交差点に立って左右へ別れる道を見ると、ゆるい下り坂になっている。

交差点から駅方向を見る

第一京浜方向を見る
グラフだと川崎駅がある方向が第一京浜側より若干低くなっているが、これはかつてこの一帯に湿地や池があったためだ。ちなみに多摩川も今とは全く違う川筋で、JR線のあたりを蛇行して流れていた。
開業当時の川崎宿は、久根崎(くねざき)、新宿(しんしゅく)、砂子(いさご)、小土呂(ことろ)という4つの村の集合体で戸数も150軒ほどだった。本陣の整備もなかなか進まず、しばらくの間、公武の客人の宿泊には砂子村にあった妙遠寺を本陣の代わりに使っていた。
旅籠や茶屋が建てられて宿場の体裁が整ったのは、開業から5~6年経った頃、松平備前守の進言によって幕府から千両の下付金を得てからだ。後から宿場となるには時間も手間も金もかかった。
宿場の務め
百人百匹
宿場の基本要件は伝馬の常備だが、じつはこれがかなり大変だった。開設当初は三十六匹(馬36頭)で済んだ伝馬数は、寛永17(1640)年になると一気に百匹に引き上げられ、以後、川崎宿はこの負担に苦しむ。

川崎宿助郷の分布 小塚光治『川崎史話(中巻)』p175より
宿場には問屋場があって問屋役が馬や人足を確保するが、常に十分な数の人足と馬を揃えるのは難しい。そこで近くの村から人馬を挑発する(助郷制度)のだが、これがひたすら評判が悪かった。
参勤交代で人の往来が増えるのはいいが、公務の役人は金を払わないのであまり大勢来られては営業的に困る。また参勤交代の大名は、人数が多くご祝儀をくれたりするのでその意味で悪いお客ではなかったが、基本的には経費を抑えたいと考えているので、もてなしが面倒くさいわりに儲けは多くない。

大名が来る時は宿場の入口に関札が立てられた
また参勤交代にはシーズンがあって、4月から6月にかけて集中的にやって来る。1日に数組の大名の一行が重なることがあると捌くのが大変だったし農繁期と重なるため助郷に駆り出される農民からも嫌がられた。
なので宿場の景気回復には一般の旅人に期待するしかないのだが、じつは川崎宿には泊まりの客の割合があまり多くないという問題があった。
川崎宿のポジション
東海道の重要な関門に箱根の峠越えと関所がある。
これは、箱根の東側(江戸寄り)に位置する宿場にとって重要な問題だ。泊まりが多い宿とそうでない宿とにわかれてしまうのだ。川崎は後者。
箱根の峠越えは時間も手間もかかるため、東海道を旅する者はほぼ全員が三島と小田原に宿泊する。当時の旅人は1日でだいたい9里くらい歩いたから、江戸へ下る旅ならば、小田原を発つと通常ならその晩は藤沢に泊まり、翌日は川崎泊まりだ。これは良い方のパターン。
しかし、ちょっと頑張って藤沢を通過して戸塚まで歩かれてしまうと、翌日は川崎へは泊まらず一挙に江戸に入ってしまうので川崎は休憩のみとなる。
また京へ上る旅ならば、江戸を発つと最初の宿は戸塚とするのが一般的だったので、川崎は休憩か昼食だ。
宿泊者が少なければ営業収入は上がらない。品川と神奈川に代わって今度は別の意味で川崎がツラくてたまらない状態になった。
本気でツラかったので、後年には何度か宿駅免除の申請をしているが、幕府は若干の助成金を下付するだけで取り合ってくれない。願いは却下され、やめさせてもらえなかった。継続困難にもかかわらず辞退も許されないとなるとこれはキビシイ。
ところがここで救世主が現れた。
田中丘隅だ。
丘隅については1回目でサクッと紹介したが、次回は彼の活躍ぶりと川崎宿の看板茶屋だった万年屋の話を詳しく。
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