宿場の再生と発展
田中丘隅
田中丘隅は1/4で書いたように川崎宿復興の中心人物で経済学者・土木家だ。
「解説まち歩きシート」にも、田中丘隅は「本陣、名主役、問屋役の三役を兼務し、六郷の渡し船の権利を八幡塚村(江戸側)より川崎宿に譲り受けて宿場の財政を立て直した」と説明されている。

民間出身だったが後に名字・帯刀を許された
田中丘隅は寛文2(1662)年に、八王子平沢村(現在のあきる野市)に窪島家の次男として生まれた。
幼い頃から神童といわれ、力も強くて相撲が得意だった。また28発の玉を打つと27羽の鳥を落としたという逸話があるほどの鉄砲の名手でもあった。さらに、人一倍農事に励んで商いにも精を出し、常に書物を手放すことなく勉学にも励んだというありえないくらい立派な青年だった。
絹の行商でしばしば川崎を訪れていたことが縁で二十歳のとき川崎宿本陣田中家の養子となり、46歳で川崎宿の名主、問屋、本陣の三職を兼務する重要人物となった。
田中丘隅が本陣の当主となった時期は、元禄大地震(推定M7.9〜8.5)や富士山の噴火(宝永大噴火)という天変地異に加えて本陣の大赤字という悲惨な状況のまっただ中にあたり、丘隅は必死の思いで宿場の再生事業に取り組んだ。
六郷渡し渡船権

『江戸名所図会 六郷渡場』より。舟は意外と大きい
六郷の渡しは1688年の橋の流失以後に恒常化し、しばらくのあいだ幕府が運営した。しかしその後、江戸の町人らの入札による請負制となって渡船事業主は転々としていた。
田中丘隅はこれに注目。
渡船の請負を宿場再生の財源に充てようと考えて関東郡代に認可を求めた。丘隅が遣り手なのは、事にあたって馬入川(相模川)や富士川、天竜川の渡船の実態を調査して確実に儲かる事を見極めてから行動したことだ。
奔走の甲斐があって、2年後の宝永6(1708)年に渡船請負権が公許された。
しかも永代独占権という最強の権利と運用資金3,500両の下付金つきだった。田中丘隅の面目躍如だ。
宿場の再生
渡船事業収入と下付金を手に、丘隅が最初に取り組んだのは伝馬のテコ入れだ。
常備すべき人足と馬をしっかり揃えて助郷の負担を軽くし、助郷を嫌って逃げ出した農民を呼び戻した。これはこじれていた宿場と助郷の各村々との関係修復に役だった。また旅籠に改装資金を助成して宿場のイメージ回復にも努めた。
疲弊してにっちもさっちもいかなかった宿場に明るい光が差し込み、川崎宿は次第に活気付いていった。
ヒドい貧乏は人の心を荒ませる。宝永年間の川崎宿は相当悲惨な状況にあったことが複数の資料から読み取れるが、丘隅はそれを救った。

丘隅が著した『民間省要』−小塚光治『川崎史話<中>p160』より
田中丘隅?そんなヤツおったかいな、などと言っていた私は恥ずかしいが、まあそれは勘弁してもらおう。ちなみに田中丘隅はときどき大学入試に出題されるらしい。
田中丘隅は後年『民間省要』という農政・民政の意見書(ココが試験に出る!)を著したことがきっかけで大岡忠相に認められ、さらに徳川吉宗に登用されて代官となった。享保の改革の一翼を担う能吏として立派に務めを果たし、68歳の生涯を終えた。
ちなみに丘隅が書き残した自伝的回想録は『走庭記』。ホントに忙しかったんだと思う。
万年屋
田中丘隅のおかげで宿場の景気は回復するのだが、もちろん頑張ったのは丘隅ひとりではなかった。
当時、たとえば明和の頃の川崎宿の多摩川側入口には古奈屋、角蔵、権六、源七、万年屋などの茶屋があって、一膳飯、そば、まんじゅうなどを売っていた。
宿泊しない客はここで一息入れて食事をしたり人足や駕籠を継ぎ替えたりするのだが、宿場は旅籠と茶屋が繁盛してナンボの世界だ。こうした店の営業努力があって宿場は盛り上がる。

万年屋が登場するのは上巻のp75
これらの茶屋(立場茶屋という)の中でもっとも有名だったのが万年屋だ。
十返舎一九『東海道中膝栗毛』(岩波文庫)の弥次・喜多のエピソードは1/4で書いたとおりだけれど、ああいった下ネタまじりの粋な文章がウケて『膝栗毛』はベストセラーとなり、本に登場する場所や店は人気スポットとなって大いに賑わった。

『江戸名所図解』の万年屋。説明も何もないがこれは万年屋があまりにも有名で説明を要しなかったためといわれている。
万年屋はもともと1品13文均一のごく普通の一膳飯屋店だったが、大師道との分岐点にあるという立地の良さも手伝って川崎大師参詣の客も取り込んで栄え、やがて旅籠機能も備えて本陣をしのぐほどの財力を持つに至った。
三輪修三が『東海道川崎宿』(八雲書房)で万年屋の盛況ぶりをアンベールの『幕末日本図絵』を引用してこんなふうに紹介している。
われわれは茶屋の万年屋で一休みすることにした。この店は往来の客を迎えるために、入口は大きく、正面も両側もすっかり解放されていた。
部屋にはいろいろな旅人が座っていて、畳が見えなくなっていた。奥の間仕切りに竃があり、湯気のたっている鉄瓶がかかっており、棚には、食器や食料が載せてある。
はしっこい女中たちが右に左に駆けずり回って、しとやかな物腰で、漆塗りの盆の上に、茶碗や、酒の盃や、魚のてんぷらや、菓子や、果物を載せて給仕している。
入口の前の、大きくて低い床几の上には、職人や人足がいたが、いずれも扇で仰ぎ、女たちは彼らのために、一つしかない火鉢で煙管に火をつけてやっていた。(『幕末日本図絵』訳:高橋邦太郎 <上>本文p259「茶屋の風景」)
『幕末日本図絵』は、幕末に日本と通商条約を結ぶため来日したアンベールが、約10ヶ月間の滞在中に日本各地を廻った際の見聞録だ。
宿場の変容
こうして、川崎に限らず各地の宿場で旅籠は大きく発展していくが、『膝栗毛』のネタに登場するように旅籠には飯盛り女たちがいた。彼女たちは給仕もするが、それは片手間で本業はもう少し艶っぽい仕事だった。「あら、おにいさんもっとゆっくりしていかない?」みたいなことだ。
正規の旅籠は平旅籠といって、今でいう建築法や消防法的な規制があり、宿泊施設としてそれなりの設備を備える必要があった。しかし飯盛り女がいる旅籠は飯売旅籠といわれて区別され、休憩ができれば良かったので設備投資も少なく済むため数が増えた。
川崎は多い時は旅籠全体の4割くらいが飯売だったが、藤沢など6割を超える宿場もあった。
幕府は正規の旅籠がつぶれては困るので、飯盛り女は一軒につき2人までという規制を設けたが効果はうすく、そのうち街道の旅人ばかりか近郊の農村からも”おにいさん”たちが通って来るようになると平旅籠から転業する者まで現れて飯売旅籠は活況を呈した。
宿場が栄えると、そこには様々な人間が集まって来る。
三輪修三は上記書でさらにこう述べている。
特に近世中期以降、地廻り経済圏の形成や特産物の成立により、宿駅にはさまざまな物資が集積され、時には「市」が立って賑わいを見せる。また、旅籠ばかりでなく、商人や職人が店を構え、農村とは異なる都市的な地理空間を構成するようになる。(本文p90)
つまり、農村は地縁結合に縛られた閉鎖空間であったが、宿場にはそうした規制から解放された明るさがあり、その魅力が人々を呼び込んだというのだ。
こうして宿場は本来の機能である運輸(伝馬)、通信(飛脚)、休泊(旅籠)の他に消費都市としての性格も備えていくようになる。宿場を維持する旅籠を営む人間の他に、商人や職人、そして渡し船の水主(これがまた曲者が多かった)が暮らしていたし遊女たちもいた。
宿場は往来の旅人を相手にしながら時を経るに従って徐々に変容していくのである。
うんちく話はこのへんで切り上げて、次回は街道歩きを再開します。
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