東海道川崎宿は知れば知るほど「ふむふむ」がテンコ盛り!(4/4)

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歩くこと

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交流館から砂子へ

砂子周辺

東海道かわさき宿交流館で「ふむふむ」の素を仕入れたら道を隔てた一行寺へ行ってみよう。

一行寺
一行寺

年に2回の藪入りの日は賑わう

一行寺は寛永8(1631)年、川崎宿開設の頃に創建された浄土宗の寺。田中本陣が手一杯の時に臨時の休泊施設として使われたことがある。

本寺は「閻魔寺」として親しまれていて、毎年1月の第2日曜と7月16日の薮入りの日に客殿の閻魔坐像と地獄極楽図が一般公開される。閻魔坐像の真っ赤な顔はビジュアル的にインパクトがあって面白い。ぜひ本物を見たいがチャンスは年に2回しかないので、狙って行かないとお目にかかれない。

次はお隣の宗三寺。

宗三寺

宗三寺

宗三寺は川崎宿の中で最も歴史が古く、創建は鎌倉時代にまで遡るという。飯売旅籠の遊女たちの供養塔があることで知られている。

遊女供養塔

片膝をついて頬に手をあてた如意輪観音は何を想う?

飯売旅籠はその後廃止されるが明治時代以降も貸座敷と名を変えて存続した。宗三寺の供養塔は、大正初期に川崎貸座敷組合によって建てられたものだ。今も気にかける人がいるのだろうか、私が訪れた日は花が手向けてあった。

助郷会所

東照・助郷会所

宗三寺を後に街道へと戻り、問屋場と中の本陣へと向かうが、そういえば奈良茶飯のイート・インがある和菓子の東照は助郷会所跡だった。

助郷会所は交代で詰めている役人(助郷総代)たちが、助郷の人馬数の確認・調整や人夫への賃金(とても少なかった)出納事務などを行っていたところ。助郷に駆り出された農民は基本的に機嫌が悪いので、時にはちょっとした揉め事も発生した。

問屋場

問屋場跡は街道が京急通りと交差する砂子一丁目交差点のセブンイレブンだ。店の脇の歩道に東海道の石柱と問屋場の標柱がある。

問屋場跡

探すべきモノは真正面にある

問屋場標柱

これが標柱!

問屋場は人馬の乗継ぎと飛脚業務を行う宿場の重要施設。

人馬の乗り継ぎは、隣の神奈川宿や品川宿から来た人間をチェックして荷物を積み替えるのだが、東海道は五街道の中でもダントツで人通りが多いため捌くのが大変だった。

問屋場

『東海道五十三次之内 庄野 人馬宿継之図』

天保の頃の問屋役人は、問屋3人、問屋代4人、問屋年寄5人、帳付け6人、人馬差11人、お迎え役4人という構成。

通常は問屋と年寄が1人ずつ、問屋代2人、帳付け3人、人馬差4人が交代で業務をこなしたが、参勤交代の大名が来る際は、全員総出で対処したという。

もう一つの重要業務である飛脚は昼夜を問わずやってくる。中身はお役所だが昼夜兼行で業務を行っていたので、ある意味コンビニっぽいと言えるかもしれない。

中の本陣(惣兵衛本陣)

中の本陣跡は、通り向かいのハデハデカラーのラーメン屋だ。店の前に標柱がある。そしてその脇に宿場の地形を説明した大きめの解説板もあるのでじっくりと読もう。「ふむふむ」の素が書いてある。

家系ラーメン

ウォーリーを探せ!ではないが・・・

中の本陣

きちんと設置はしてある

説明板

これが解説板。立派なつくりだ

人通りが絶えないこの交差点に立って、かつての宿場の光景を思い浮かべるのはなかなか難しい。けれど交流館で見たジオラマや資料の映像を思い出して思いっきり想像力を働かせてみよう。

宿場歩きは「〜ごっこ」の要素もあるので頑張ってみる価値はある。(といいけれど)

砂子から小土呂橋へ

佐藤本陣
砂子通り

砂子交差点を過ぎると「いさご通り」

かわしん本店

川崎信金本店のシャッターには東海道の図が描かれている

JR川崎駅から伸びる4車線の市役所通りに出て砂子交差点をわたると左手が川崎信金本店だ。店舗の脇にちょっとしたスペースがあり、佐藤惣之助のレリーフが設置されている。

かわしん本店

川崎信金本店前

佐藤惣之助レリーフ

佐藤惣之助は川崎宿出身の詩人・作詞家だ

ここに佐藤本陣跡の解説板があるはずだが、レリーフに気を取られていると見つけることは難しい。

本気で探しても見つからない解説板というのもヘンだけれど、ツッコミを入れるのはよそう。川崎宿は手強いのだ。ちゃんと通りの反対側にあるので気を取り直して次へ進もう。

大徳寺
大徳寺山門

山門はちょっとわかりづらいかもしれない

万年屋の墓
新川通りに行き当たる手前を左に折れて仲見世通商店街に入り、大徳寺にも立ち寄ってみよう。ビルに取り囲まれた街中の小さな寺だが、万年屋の主人だった半七の墓がある。

小土呂橋親柱

大徳寺の先で東海道は新川通りと交差する。新川通りは用水路を暗渠化して埋め立てて造った道路だ。

新川通り

新川通りはかつての新川堀用水

江戸時代には八丁畷の西側に大きな沼(鷭沼)があって周辺は湿地帯だった。多摩川が氾濫すると水が溜まって東海道が冠水する。大きな台風が来たりすると辺り一帯が湖のような状態になってなかなか水が引かない。

そのたまり水(悪水といった)を効率を良く排水するために幕府は直轄事業で新川堀用水を開いた。小土呂橋はその新川堀に架かっていた橋で、橋の欄干の親柱が交差点脇の歩道に保存されている。

小土呂橋親柱

親柱は自転車置き場の間にある

当初は木製の橋だったが、田中丘隅が享保11(1726)年に石橋に架け替えた。丘隅はホントによく働く。

小土呂橋から京口、八丁畷へ

京口周辺

小土呂橋交差点を過ぎると旧街道は静かになってくる。街道の道幅は3.5〜4間くらいだったので、通りのイメージは今の道路とそれほど違わない。ちなみに宿場の長さは13町52間で約1.5キロだった。
京口方面へ

車も人も少なくなる

教安寺

教安寺本堂

教安寺は江戸中期の高僧・徳本上人の「六字名号碑」がある浄土宗の寺。徳本上人といえば「南無阿弥陀仏」。シンプルで分かりやすい教えは、当地でも圧倒的な支持を得ていた。境内には二基の碑が保存されている。

教安寺梵鐘

また、教安寺には文政12(1829)年に鋳造された梵鐘がある。市内の寺の古い梵鐘の多くは戦時中の金属供出で失われたが、本寺の鐘は停電の際サイレン代わりに使用する予定で市役所に保管されていたため難を逃れた。

ブログの1回目で川崎宿はうす味で遺構の類いはあまりないと書いたが、川崎宿は江戸時代に何度か大きな火災に遭っている。その後、震災と空襲にも遭った。

川崎は明治後期以降に重工業が発達して軍需工場が集中したため、空襲の標的として徹底的に叩かれた。なので、古い建築物も記録もはほとんど失われてしまったのだ。

京口と江戸口

宿場には入口と出口があり、往還と町域とを区別する明確な境界が敷かれて石垣が積まれていた。その境目を土居という。棒鼻ともいうが、棒の先っちょ、つまり外れのことだ。

大師_土居

土居の石垣。三輪修三『東海道川崎宿』より

土居は宿場の両端にあって、それぞれ江戸口、京口と呼ばれた。大名がやって来るときはここに関札が立てられ、到着の予定が周知される仕組みになっていた。現在の京口はコインパーキングになっているが、ここが川崎宿の外れだ。

京口コインパーキング

えっ!ここが?なんて言わないように

川崎宿京入口

京口の解説

土居を外れると町並みがぱたっと途絶えて一本道が続き、両側には田んぼや畑が広がっていた。

「神奈川より川崎迄 二里半 砂地道わるし 風はけし」(『東海道巡覧記』)という記述が残っている。時代劇の侍は懐に腕を組んでゆうゆうと街道を歩いたりしているが、いつも天気が良かったわけもなく、雨風が強い日など街道の旅はたいへんだった。

芭蕉句碑
芭蕉句碑

句碑のすぐ後ろを京急線が走る

句碑アップ

達筆すぎて読めない!?

麦の穂をたよりにつかむ別れかな(芭蕉)

芭蕉は、元禄7(1694)年の5月、今でいう6月下旬頃に故郷伊賀国へ帰るため江戸を発った。弟子たちが川崎宿まで随行して見送りに来て、街道のはずれの茶屋で最後の別れを惜しんだ。

碑に刻まれた句は弟子たちの献句にこたえて芭蕉が詠んだものだ。

ちなみに弟子たちの句をいくつかあげるとこんな感じ。

「翁の旅を見送りて」

麦ぬかに餅屋の店の別れかな(荷分)

麦畑や出ぬけてもなお麦のなか(野坂)

浦風やむらがる蠅のわかれとき(岱水)

刈り込みし麦の匂ひや宿のうち(利牛)

芭蕉の句碑は各地に多数あるが、芭蕉自身が建立地を訪れて詠んだものは少ない。その意味でこの句碑は特別な存在といえる。

かわさき宿交流館に「川崎宿ものがたりBOX」という画像と模型をミックスした音声付き解説設備があり、「麦の別れ」もその中の一編として見ることができる。2〜3分の短編だが麦畑の中を歩み去って行く芭蕉の姿に「ほほう」の気分が味わえるのでオススメだ。

八丁畷駅

八丁畷駅

芭蕉句碑の先は京急線八丁畷の駅。このあと東海道は駅手前の踏切を渡って左に折れ、横浜市鶴見区を通過して神奈川宿に入る。


ルーツ?

川崎駅周辺は、いま商業ビルが建ち並んでオシャレな店が増えた。

川崎市は、音楽、映像、文化(もちろん川崎宿も含まれている)、情報産業などを前面に出したシティプロモーション活動を行っていて、一昔前とはかなり雰囲気が変わってきた。

しかし私は今のこの街に微妙な違和感がある。

さてここで『東海道でしょう!』をもう一度見てみよう。多摩川上流の東京都府中市出身の杉江松恋はこう書いている。

何度も書くように僕は多摩の生まれなので、南武線一本で行ける川崎には、歌舞伎町を擁する新宿以上の妖しさを感じていた。なにしろ川崎競輪場がある。その客を見込んだかのように特殊浴場街がある。20代のはじめ、川崎の駅前で喧嘩の仲裁に入ったところ、「若いのに感心だ。どうだ、一緒にソープに行こうか」と言われ、びっくりしたことがある。(本文p30)

そうそう、これ。キレイで楽しいエリアが増えてきたとはいえ、人々が行き交うざわざわした街の空気に、杉江松恋が20代だった頃感じていた妖しさが今も残っているのではあるまいか?

前回書いたことをもう一度ここに引いてくる。

川崎宿には宿場を維持する旅籠を営む人間の他に、商人や職人、そして渡し船の水主(これがまた曲者が多かった)が暮らしていたし遊女たちもいた。

ちょっとしたうさんくささと、ほんのりヤバい感じが漂うのが川崎駅周辺の魅力だ。そしてそのルーツは川崎宿にあると踏んでいるのだが、まあそれはいわゆる”個人的な感想です”というやつだ。

ちなみに私が初めて川崎宿を訪れたとき、砂子のあたりで信号待ちをしてると、デカいペットボトルの焼酎をラッパ飲みしながらこちらへやって来るオッサンがいてビビった。

すれ違いざまにさらにぐびぐび飲んでプハっと息を吐き、空になったボトルをポイッと投げ捨てて駅の方へ歩き去った。べろべろに酔ってふらついているわけではないのが余計に不気味だったが、あれはいったい何だったのだろう?

ちょっとヘンテコでバランスが良くないかもしれないけれど、私はこの街が好きだ。

もちろん川崎宿とかつてそこに暮らした人々も。

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