
以前このブログで、天保十二年の富士道中日記をとり上げた時、私は”こんな素晴らしい旅ができた彼らがひじょうに羨ましい。”と書いた。
彼らとは、先達に率いられて富士山登拝の旅を行ったタテカワ講の講員たちのことだ。およそ400キロの行程を13日間で踏破している。
では、彼らの旅のどこが羨ましかったのだろうか。
ひとつは、富士山まで歩いて行ったこと。
そしてもうひとつは、麓から頂上まで全部自分の足で登ったことだ。
時は江戸時代。駕籠や馬という交通手段はあったにしても、旅の基本は歩きだ。しかしいくらそれが基本とはいえ、家を出ていきなり遠方の目的地へ向かって歩き出すという発想は現代の我々にはない。近所のコンビニへ行くわけではないのだ。そのあたりのキッパリ感というか、ある時を境に日常生活をすぱっと切り離して旅に出るという行為の潔さも含めて、やはりひじょうに羨ましい。
彼らの道中記を〝発見″して以来、この感情は私を捉えて放すことなく次第に強さを増していき、ある日、私の背中を押したのだった。
タテカワ講と早野講
しかし行くと決めてはみたものの「ちょっと旅に出てくる」と言って何週間も世間から姿を消す事は、こんな私でもなかなか難しい。仕事はそんなに長くは休めないし、連日30キロ以上も歩き続けるとなると「ん?」ということになる。
なので、タテカワ講ルートをそのままなぞるのは止め、他の道中記も参考にしながら自分のルートを作成することにした。行程は日帰りメインで距離を伸ばしていく。
参考にした記録は「富士登山控帳 神奈川県都筑郡柿生村早野講」と、同じく早野講「富士道中日記簿」。いずれも岩科小一郎『富士講の歴史』(名著出版)に記載のもので、明治22年、26年と天保から50年ほど時代は下るが、早野講の登拝も徒歩で行なわれているので天保年間と環境は大きく変わってはいない。
柿生村早野とは現在の川崎市麻生区早野のこと。早川講はタテカワ講と同じ川崎の富士講で、タテカワ講の本拠地である川崎宿(川崎区)から北西方向へ20キロほどの場所に位置する。
早野講は地理的に多摩丘陵に近いためか、最初から八王子を目指している。「富士登山控帳」のルートは下記のとおりだ。富士山頂からは須走へ下山している。
柿生村→八王子→高尾山→小仏峠→甲州街道→大月→谷村→吉田→頂上→須走→松田→蓑毛→大山→厚木→鶴間→柿生村
一方「富士道中日記簿」の方は、富士山頂から小御嶽を経由してふたたび吉田の御師宅に戻り、山中湖、篭坂峠を経て須走の浅間神社を参拝している。山頂から先のルートは固定ではなく、講によって或いは講は同じでも時々の事情によっていくつかバリエーションがあったようだ。
見どころ満載でゴージャスなタテカワ講と比べると早野講ルートはコンパクトだが、高尾山を経由して富士山に登り、帰路に大山へ立ち寄ることは共通している。約200キロ(220~250キロ?)の行程を6泊7日で巡る旅で、1日の移動距離はタテカワ講と同じ30キロ強だ。両者の日程にはかなり差があるが、早野は農村部にあったため、農作業などの都合で長く家を空けられなかったのかもしれない。
平成富士山道中記
ところで、今回私が歩くルートはこれだ。
スタートは、今回の登拝のきっかけを与えてくれたタテカワ講に敬意を表して川崎宿とした。宿場を出たら府中街道、甲州街道、富士道を辿って富士吉田へ。富士山頂からは早野講のように須走へ下りて足柄古道を伝って足柄峠を越え、関本から大山に向かう。その後タテカワ講ルートに沿って藤沢、戸塚、神奈川の各宿場を経て川崎に戻ってくる。道中の社寺へお参りするのは富士講の登拝と同じにしたい。
何回くらいで廻って来られるのか歩いてみないとわからないが、漠然としたイメージはある。余り細かく計算してしまうと面白くないので、敢えて突き詰めないでスタートすることにした。
第1回 川崎~小杉
稲毛神社
長距離ウォークから遠ざかって久しいので、初回は軽い足慣らしとして短い距離を歩いてみた。
まずはスタート地点の稲毛神社へ向かう。稲毛神社は川崎宿の総鎮守で、江戸名所図会にも紹介されている古社だ。境内の西側に浅間神社が祀られ、立派な講碑が建てられている。浅間神社に手を合わせ、宿場を通って府中街道へ向かった。

稲毛神社の夏の山王祭は毎年多くの人で賑わう

タテカワ講の登拝の旅は浅間社が出発地点
稲荷横町から馬頭観音、妙光寺
府中街道旧道の起点は、六郷橋から東海道を50mほど入った所の稲荷横丁だ。入口にはかつて「高幡不動への道」という道しるべがあったという。道の左手にあるお稲荷さんは川崎稲荷社。横丁は今は京急線に遮られて通り抜けることができないので、本町交差点から国道409号を多摩川に沿って行くのが普通だが、少し遠回りして京急川崎駅を回り込んで幸町方面へ向かう。

現在の横町は70mほど。突き当たりは京急大師線

古文書焼失により創建不明。現社殿は昭和29年頃の再建
JR線を潜ってソリッドスクエア横の通り行くと左に入る細い道があり、幸町の住宅街に入る。この通りの一画に馬頭観音と庚申塔があるはずだと思い行ってみると、おお、ちゃんとあるじゃないか!と早くも気分が盛り上がる。

ソリッドスクウェアは明治製菓川崎工場跡地の再開発エリア

静かな幸町住宅地

祠をのぞき込むと馬頭観音がこちらを睨んでいた
馬頭観音から府中街道へ戻ってしばらく進むと、旧道は現道と分かれて妙光寺のある小向(こむかい)へと伸びてゆく。このカーブは多摩川と平行するラインを描いているが、旧道の形がこのラインとよく似ているのには理由があって、かつてこの道は多摩川の堤防であった。タテカワ講の一行もこの堤防の上を歩いたはずで、晴れていれば丹沢越しに富士山が見えたかも知れない。
小向の妙光寺は田中丘隅の菩提寺だ。丘隅といえば川崎宿のスーパーヒーロー。タテカワ講の登拝は天保12年なので没して100年ほど経っているが、講員たちにとっては郷土の誇りだったはず。山門前を通るとき、彼らは丘隅を話題にしただろうか?

丘隅の墓は意外とシンプルだ(写真は春に撮影)
平間の銚子塚
府中街道は「下平間交番」交差点を左に折れて南武線を踏切で渡る。

府中街道へはここを左に
平間駅近くのガス橋通り手前に、旧道がちょこっと残っているので行ってみることに。
ここには銚子塚と呼ばれる小さな古墳があり、祠とお地蔵さまと馬頭観音がまつられている。赤穂浪士に纏わるストーリーがある祠だ
また、平間には多摩川にガス橋が架けられるまでは渡し舟があり、その渡し場と府中街道とを結ぶ古い道に理由不明の直角の曲がり角が設けられていて「平間の七曲がり」と言った。調べてみると「ふむふむ」のネタがあるが、今回は深入りしないで先を行く。

説明板の脇にお地蔵さま。鳥居の奥には祠と馬頭観音が。
市ノ坪旧道
市ノ坪跨線橋を越えると現道の左側に旧道がしっかり残っているのでそちらへ入って行く。車は少なく歩いている人もほとんどいない静かな道だ。

市ノ坪旧道はここから

静かでほっとする
綱島街道を渡った先に庚申堂があり、更にその先の東福寺の境内にはいくつもの馬頭観音が並んでいて興味深い。この日は武蔵小杉の駅で行程を終えた。

歩いて行くと思いがけず庚申堂が

祠の中の観音さまはしっかり三猿を従えている

東福寺は真言宗の寺院。玉川八十八ヶ所霊場ほかいくつかの札所となっている

境内の馬頭観音は表情も形状も興味深い
2018年5月19日。歩行16.7km 21,643歩。
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