第3回 登戸〜府中

小田急線登戸駅からスタート。津久井街道の登戸から向ヶ丘遊園駅間の旧道を通って二ヶ領用水に架かる小泉橋を渡り、府中街道に出る。
府中街道が小田急線を越える辺りを榎木戸と言い、登戸宿への入口になっていた。今その地名は使われないが、「今昔マップ」をみると榎戸と記され、登戸との間に細い道がつながっている。
菅の六地蔵
六地蔵
津久井街道を渡ると矢野口の先まで旧道が消滅しているので、しばらくは交通量の多い現道を行く。
この先、稲城市との境にかけて、菅(すげ)の六地蔵という六体の地蔵がある。六地蔵の言い伝えは、川崎市のホームページでもわかるが、ここは例の多摩図書館の『府中街道・付だいし道』(以後『府中街道』と略す)から引いてみる。
むかし、菅の六地蔵は、代官やしきのあった番場谷戸にありました。ところが山くずれがうづまり、村中に伝染病が大流行したのでお寺で拝んでもらったら、地蔵のことがわかりました。村人は、さっそく地蔵を山から掘りおこし、村を守ってもらおうと街道ぞいの自分たちの村の入口にたてました。それ以来、病気やじこはあまりないようです。(番場の星川はるさん・明治十九年生まれ)同書p162
『府中街道』の手書き地図と今回の歩き用にと、ものすごく久しぶりに書店で買ってきた地図帳とを照らし合わせながら府中街道を進む。スマホのGPSは日常的に使っているが、街道歩きにピンポイントの位置情報は必要なく、今だいだいここらへんというアバウトな感覚だけで十分だ。それにそもそも菅の六地蔵はGoogleマップには載っていない。
しばらく歩道を行き、目についたドラッグストアで買い物をした。店を出て再び歩き出すと何か視界を掠めるものがある。振り向くとそこに祠があった。いきなり第一地蔵発見だ。
む、こんなに地味なのかと思い、見つけたことは嬉しかったが、ぼうっとしていると見落とすぞと軽く気合いを入れた。

赤◯が六地蔵 多摩図書館『府中街道・付だいし道』より(着色は筆者)
『府中街道』の地図によると、六地蔵は川崎から府中に向かって第一が右側で以後は左右交互に建てられている。第二地蔵は旧三沢川を越えた先だ。川といっても橋がかかるようなものではなく、道路の下を暗渠で潜っていく小さな流れだ。
現場に行ってみると旧三沢川は確かに暗渠に吸い込まれていたが、道路脇はさら地になっていて何もない。地蔵を片づけるわけはないので、おかしいと思いながらも暫く進むと、道路の反対側に地蔵がある。第三地蔵だ。
ということは二番目は見落としたのか?戻って探してみたがやはり地蔵は無い。さら地はさら地だ。がっかりしたが再び歩きはじめた。すると、あれ?また右側に地蔵があるではないですか。
なんだそういうことか。第二地蔵は道路の反対側に移されたのだ。第一と第三地蔵は『府中街道』の地図どおりの場所にあるから辻褄は合う。稲城市の境まで歩き通すと、残り四ヶ所の地蔵はあるべき場所にきちんと立てられていた。六地蔵は無事にクリアだ。
と思っていたが(数日後まで)じつはこれは大間違いだった。
撮った写真を見直すと、第一地蔵がなんだか変だ。というか、これは地蔵なのだろうか?馬頭観音じゃないの?他の地蔵と全くタイプが違う・・・。
いろいろ調べた結果、私はひどい勘違いをしていることがわかった。
先ず、私が第一地蔵だと思ったものは六地蔵ではない。そして、第二地蔵だと思っていたものが第一地蔵で、それ以降はひとつずつずれている。さらに、稲城市側にあるものを第一地蔵とするのが一般的であるとのこと。しかし地蔵にはそれぞれ地名を冠した呼び名があって、地元の人は誰も地蔵を番号で呼んだりはしない。
それぞれ場所ごとに大切に管理されているのだ。よく読むと『府中街道』にも馬場(ばんば)の地蔵とか樋口(といぐち)の地蔵とかちゃんと名前が書かれている(順番は川崎側が第一地蔵だが)。
これはショックだ。私の勝手な思い込みが原因だが、第一地蔵を見間違えた件は何も言い訳ができない。結局、菅の六地蔵は私に於いては今でもひとつ未確認のままだ。

My第一地蔵(?)

My第二地蔵(第六 馬場-ばんば-の地蔵)

My第三地蔵(第五 火打島-ひうちじま-の地蔵)

My第四地蔵(第三 塚戸-つかど-の地蔵)

My第五地蔵(第二 島口-しまぐち-の地蔵)

My第六地蔵(第一 樋口-といぐち-の地蔵)
六地蔵と富士山
ところで、菅の六地蔵は富士山と関係がある事がわかったので書いておく。
六地蔵が作られたのは1707(宝永4)年3月のこと。菅馬場にあった代官屋敷の敷地内に並んで立っていた。星川はるさんが言っていた「むかし」とはこの年のことだが、宝永4年といえば10月の宝永大地震と11月の富士山大噴火。史上まれに見る大厄災の年だった。
富士山は宝永大地震の49日後に爆発し、噴火は17日間に亘った。新田次郎『富士に死す』(文春文庫)に噴火の様子が描写されている。
火柱が立ち、黒煙が天を覆い、雷鳴が轟き、火の矢が走り、火の玉が飛んだ。山鳴り、地震は続き、この世の終わりのごとき状態になった。(中略)この日は天気がよかったから富士山の異変は江戸でも見ることができた。富士山の山焼け(噴火)だと騒いでいるうちに、降灰はやがて江戸の空を覆った。夜のごとく暗くなり家々は行燈に火をつけた。人の往来はぴたりと止まった。降灰のために眼もあけられない状態だった。
江戸より若干富士山に近い川崎の地も状況は同じはずで、星川はるさんが言う”山くずれがうづまり”云々とはこの地震や噴火によるもので、結局この災害を契機に六地蔵は人々によって街道に祀られることとなった。
ひじょうに「ふむふむ」な話で当時の人々はさぞ恐ろしかっただろうと思う。疫病が流行っても不思議ではないし、災いを鎮静するために地蔵にすがった気持もよくわかる。往時にくらべれば多少信仰がうすれたとしても、六地蔵はここでは大切なものなのだ。
六地蔵の話をこれほど長く引っ張るつもりはなかった。先を急ごう。
出店と菅の渡し
街道が新三沢橋を越える「稲田堤駅入口」交差点を付近は出店(でだな)と呼ばれて毎年暮れに市が立つ賑やかな場所だった。菅の渡しと街道を結ぶエリアだ。いまでもちょっとした駅前通りになっていて多摩川の堤防には渡し場の碑が建っているので寄ってみた。通りの幅がさほど広くないのはこれが昔からの道であったことを示している。

「稲田堤駅入口」交差点から駅方向に向かう

菅渡船場の碑はなかなか立派だ

多摩川の川面に空が映る
府中街道と川崎街道
府中街道は稲城市を境に東京へ入ると川崎街道と名前を変える。
この街道は、川崎に近い所では府中街道とよびますが、それは目的地が府中にあるからです。したがって、川崎の北部をこして東京に入ると、東京都側では、川崎街道とよんでいます。同じように川崎に通じている道だからです。(多摩図書館『府中街道・付だいし道』p9)
ひじょうにわかりやすいが、府中と川崎両者の間に微妙な感情が交差している気がする。どちらも自分たち目線でそう呼んでいるからだ。大した問題ではないのかじつは大きなこだわりがあるのかはわからないが、私は川崎から歩いてきたので、とりあえず呼称はこのまま府中街道で通しますけど。
上新田の三叉路
鶴川街道と交わる矢野口交差点を通過するとすぐにJR南武線の矢野口駅だ。
交差点付近はかつて塚戸とよばれて、なかなか賑やかなところであったという。多摩川にも近く、渡しがあって東京との行き来も盛んだったので頷ける話だ。
タテカワ講の一行はここ矢野口から舟で対岸の調布へ渡っていった。甲州街道の下石原あたりの宿場へ出たものと思う。私も最初は彼らを追いかけるつもりだったけれど、多摩図書館の『府中街道』が面白いので、この本に付き合ってこのまま府中の大国魂神社まで行くことにした。
庚申堂と馬頭観音
矢野口交差点の先から右手に旧道が伸びている。大通りから解放されると途端に静かになってほとんど人がいなくなるのはお約束どおり。

ここから旧道へ入る

静かな旧道
JR南武線の下を潜ると右手の住宅の一画に庚申堂と角形の馬頭観音があり、石の両側に「西八王子道」「東河崎道」と刻まれている。分岐点でなくてもやはり道しるべは必要なのだ。そういえば府中街道には一里塚のように旅程を測る目印がないから、こうした道しるべで自分の現在位置を把握したものと思う。

庚申堂は東向きで道しるべが道路際にある

青面金剛は三猿を従えて邪気を踏んでいる

角柱の左側に「西八王子道」右側に「河崎道」と記されている
ざるやと石碑群
このあと稲城大橋通りの信号を渡ると三叉路に出会う。旧道は「長沼ざるや」というコンビニを回り込むように西へ向かうが、ここは上新田といって長沼(稲城長沼)の中心地で、石や、かじや、あめや、なべや、はこや、といった屋号の店が並んでいた。
ざるやの本家ではしょうゆを売り、ざるやでは米と肥料を売っていました。近くの農家では米や麦と肥料をとりかえました。ざるやの本家の東どなりには、青物市場がありました。あめやは一ぜんめしやで、街道をいききする馬方たちが馬を脇のくいや木につないで食事をしたり、お酒をのんで仕事のつかれをいやしていました。(田中ミキさん・明治二十一年生まれ)同書p172
現在の「長沼ざるや」と道を夾んで「米」の看板がある旧家らしき家があるので、両者はその屋号からして昔の「ざるや」と「ざるやの本家」ではないか。田中ミキさんの時代に賑わっていたのならそれは江戸時代から続いていたはずで、創業◯◯年の老舗!といった力みなどなく、ただ普通に商売をしているだけという佇まいがかえって歴史をおもわせる。

「長沼ざるや」は三叉路にある

上新田の石碑群は馬頭観音と往診塔、供養塔など
また、この三叉路には石碑が並んでいる。馬頭観音、庚申塔、供養塔といろいろあるが、分岐点になくてはならない道しるべももちろんしっかりと保存されている。ここの道しるべは自然石に文字を刻んだもので、三叉路の又のところの歩道に埋め込んである。行き先は「右八王子・東川さき・左大山」とされている。さほど大きなものではないが存在感がある。

三叉路の道しるべは自然石に刻まれている
このあとも『府中街道』の記述に従って旧道を進み、アーチ橋の是政橋で多摩川を渡って大國霊神社に到着した。
2018年6月9日。歩行24.1km 31,841歩。
歩行通算65.2km 85,313歩
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