【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(9)富士山 富士吉田金鳥居〜須走口五合目

夜明け 富士山

第9回 富士山 富士吉田金鳥居〜須走口五合目

第9回

金鳥居から馬返

富士山(金鳥居〜須走5合目)

とうとうこの日がやってきた。川崎宿から富士吉田まで街道を歩き繋いで約200km。9回目の今日は富士登山本番だ。いや富士登拝か。

ルートはもちろん吉田ルート。0合目の金鳥居から登り始めて小屋で一泊し、翌日登頂して須走口へ下山する予定だ。山の天気予報を毎日チェックしているが状況はいまいちスッキリしない。登山指数が午前と午後の予報でころころ変わる。2日ほど様子を見てもラチがあかないので8月28日に出発した。吉田火祭りの翌日だ。

「草山」と遊歩道

富士急行富士山駅の改札を出て金鳥居を潜り、両側に御師宅が並ぶ国道をゆっくりと歩いて行く。

北口本宮浅間神社の境内を抜け、吉田口登山道を歩き始めた。登山道とはいえここは舗装された車道だ。車道は馬返まで続いている。並行して整備されている遊歩道があるのでそちらを選んだ。富士山には麓から順に「草山」「木山」「焼山」という三つのパートに分けられた呼び名がある。遊歩道はその「草山」部分が楽しめるルートだ。

富士山を0合目から登ろう思う登山者は少ない。そして夏休みも終わろうとする8月末の平日で、まだ朝の時間帯というせいもあるだろうが、とにかく人がいない。途中に「クマ出没注意」という表示があり、普段ならちらっと眺めてスルーするはずのこの種の看板が気になる。それほど辺りは静まり返っている。中ノ茶屋を経て馬返に着くまで約3時間。途中で出逢ったのは,下山してきた登山者2人とトレイルランナー3人のみだった。

足袋とわらじ

江戸時代以来、富士講の登拝スタイルの定番は、白装束とわらじ、足袋、金剛杖だった。これを現代の装備に置き換えれば、白装束は速乾素材のウエアとゴアテックスのレインスーツ。わらじと足袋はトレッキング・シューズとスパッツ。そして金剛杖はカーボン製の折畳み式ストックだ。

これらの装備の中でシューズは最も重要なアイテムのひとつだが、彼らの足元を固めるのは足袋とわらじだ。なんとも頼りない気がするが、草山も木山も焼山も全部わらじで登り下りした。

『富士の山旅』(服部文祥編/河出文庫)という随筆集に「富岳に登るの記」という天保年間の紀行が収録されている。御殿場から吉田へ抜けるルートの登拝記で、紀行によると、御殿場(須山)から頂上を経て吉田口を五合目まで下りてくるまでに4足のわらじを履きつぶしたと書かれている。

江戸時代の旅人は、街道をいく際に一足のわらじで3日歩いた。それと比べると彼らのわらじの消耗はかなり激しい。しかし履き替えの予備を確保しておくことができれば、わらじで富士山の砂礫を上り下りすることは、他に選択の余地はないにしても、とくに不都合はなかったようだ。

私はわらじで山を歩くというのは、単純に足が痛くて辛いだろうと思っていたのだが、実際はそんな感じでもないらしい。「富岳に登るの記」にも強風や寒さへの言及はあっても足がツライとは書かれていない。

ということは、足は痛くなかった?

家の中で足の小指をテーブルの脚にぶつけて、あ゛ぁとなったことを思い出せば、そんなに無防備で(足袋を履くにしても)良いのだろうかと思うのだが。

ちなみに『富士の山旅』編者の服部文祥は『百年前の山を旅する』(新潮文庫)で、昔の装備を身につけて奥多摩や北アルプス、奥秩父の山々への山行を試みている。もちろん彼のハキモノはわらじだ。

馬返から七合目

大文司屋

馬返の車止めの奥に大文字屋(明大山荘)という小屋があり、お休み処として市民ボランティアの方が接待をしてくれる。時刻は11:30。休んでいらっしゃいと勧められるままに休憩していると、山頂でご来光を迎えた登山者が下山してくる時間帯になり、幾人かと言葉を交わした。天気が気になるので尋ねると「降りそうだけど降ってないです」「曇りだけど時々パッと晴れたり」とのこと。なるほど、天気予報のとおりだ。

鈴原と御室浅間奥宮

お休み処から10分ほどで一合目の鈴原天照大神社に到着した。タテカワ講道中記に記載されている「鈴原江参り」の神社だ。さらに30分歩くと二合目の富士御室浅間神社奥宮へ。かなり倒壊が進んで黄色いテープで厳重に立入禁止にされている。麓の河口湖町にある本宮の奥宮扱いで、神社の周辺だけ河口湖町の飛び地になっている(富士山北麓は富士吉田市)。

昼食堂

富士御室浅間神社奥宮から20分登ると三合目の見晴茶屋、更に20分登ると四合目の大黒小屋(大黒天)に到着した。小屋と名が付いていても見晴茶屋は既に跡形もなく、大黒小屋は廃屋になっている。

見晴茶屋付近は麓から登ってくるとちょうど昼どきになるため昼食(ちゅうじき)堂とも呼ばれ、ずいぶんと賑やかだった。当時の様子は『レンズが撮らえた幕末明治の富士山 』(山川出版社)で見ることができる。富士講の登拝記念写真も多数掲載されていて、昔の装備やスタイルが興味深いが、なんと言っても彼らがカメラのレンズを見つめる目ヂカラの強さとドヤ顔から、富士山へ登ることに対する誇りと喜びが伝わってくる。

昼食堂には社があり、三社宮といって道了、秋葉 、飯綱の三神が祀られている。飯綱神といえば思い出すのは5回目に歩いた高尾山だ。富士講が甲州道中で高尾山に立ち寄る事と繋がっているのだと思うと、なるほどねえと腑に落ちる。

四合五尺から六合目

四合五尺の御座石で標高2,000mを超え、中宮、雲切不動と徐々に高度を稼いで行く。中宮周辺は「木山」と「焼山」の境目だ。そして同時に俗界と聖域との境目でもある。ここから上は神々の領域で、今は木々が育って山頂方面への眺望は得られないが、昔は頂上まで登れない人々の遥拝地であった。

雲切不動の先で登山道から一旦滝沢林道に出て再び小径を歩き、14時過ぎに五合目の佐藤小屋に到着した。1泊の予定なので本来なら小屋を予約しておくべきだが、ハイシーズンを過ぎている事と久しぶりの山行で初日に自分がどこまで登れるかわからないため今回は小屋を決めていない。ここに泊まっても良いが、明日の行程を考えてもう少し頑張ることにした。

五合五尺の経ヶ岳、六角堂を通過すると森林限界を超えて頭上を遮るものはなくなる。雨が降ったり晴れたり曇ったりと天気は目まぐるしく変わる。六合目でスバルラインから上がってくる登山者と合流すると周囲が賑やかになった。

花小屋

外国人や中学生の学校登山グループに囲まれながら更に歩くこと約1時間。七合目の花小屋に到着した。花小屋の標高は2,700mほど。麓の金鳥居から1,900m登ってきたことになる。時刻は15:40。そろそろ小屋に入る時間だ。花小屋に泊まって初日の行動を終えることにした。

七合目から山頂

夜間登山

深夜2:25。小屋を出て夜の登山道を歩きはじめた。当初の予定では一晩ゆっくり休んで翌朝出発のつもりだった。しかし、0時過ぎに誰かの目覚し(スマホ)が鳴り始め、本人は寝たままなのかどこか別の場所にいるのかわからないが、止むことなくいつまでも鳴り続け、完全に目が覚めてしまった。仕方なく支度を整えての夜間登山だ。

七合目から八合目にかけての小屋が連続している急斜面をヘッドランプを頼りに登っていく。タテカワ講道中記の「七合目身禄江参り」は元祖室の烏帽子岩神社だと思うが、社は暗くて何だかよくわからずあっさりと通過。

ご来光にはこだわらないと言っておきながら、やはり夜明けの光景は美しい。時折足を止めて日が昇るのを眺めながら、本八合、九合目と順調に高度を上げて6:45に頂上の浅間大社奥宮・久須志神社に到着した。

山頂と火口

山頂はガスで視界が遮られ、周囲も火口も見渡すことはできないが、奥宮を参拝すると何か肩の荷が降りたような気がした。ベンチに座ってしばらく休む。

初めて富士山にチャレンジした時は、仕事仲間と富士宮口から徹夜で登り、頭痛に耐えながら頂上にたどり着いた。今回は金鳥居から歩き始めたおかげで高度や気圧の影響は無く気分はすっきりしている。0合目から登って来ると、草山、木山を楽しめること以外にこうしたオマケも付いてくるのだ。

前出の『富士の山旅』に深田久弥の「お鉢廻り」という富士八峰についての一文がある。その中で深田久弥は、お鉢の中は神聖な場所なので中へ降りることは許されていないとしながら、氷雪期に底まで降りてみた事があると言っている。お鉢は上から覗くと「相当凄い」が、底から見上げると「尚一層凄い」という。大内院が禁足地であることは承知していても、登山家は興味と関心があれば行ってみたくなるものなのだ。

そういえば、クライマーの山野井泰史も火口の氷壁(サミットフォール)を登りに行き、日本最高所でのアイスクライミングはとても充実した時間であったとブログに書いている。

ごく普通の一般登山者も富士講も世界的なクライマーも、誰でも丸ごとウェルカムの富士山は、やはり高さだけではなく懐の深さもまた日本一の山なのだろう。

下山

30分ほど山頂で過ごし、須走口への下山を開始した。お鉢巡りはまたの機会に取っておく。せっかく登ったのに勿体ないと思いながらもあっという間に400m下って吉田口との分岐である本八合目に到着した。分岐地点で案内をしているガイド氏に、そちらは須走口だけどOKか?と確認されながら、方向を変える。

砂走

大陽館のある七合目からは本格的な砂礫の道になり、ここしか出番のないスパッツを装着して砂走を下った。山頂はどんどん遠くなり、晴れたりガスがかかったりと相変わらず天気は安定しない。登りはジグザグの雷光型だったが、下りはひたすら真っ直ぐに下りて行く。

砂礫の道は一旦途切れて潅木帯に入るがすぐにまた砂の道が続く。いい加減うんざりした頃に標高2,230の砂払五合目に到着し、長かった砂走が終わって焼山から木山のエリアに入った。

須走口五合目

気持ちの良い樹林帯を歩き、古御岳神社で無事下山の報告をした。神社を後にすると間もなく須走口五合目のレストハウスだ。バスが2台並んでいるのが見える。時刻表を確認すると発車5分前だ。とくに何を考えるでもなく、勢いでそのままバスに乗り込んでしまった。

バスはふじあざみラインの樹林帯を静かに下って行く。ストレッチをするのを忘れた事や、富士講御用達の東富士山荘へ寄ってこなかった事に気づいたのは、だいぶ時間が経ってからのことだ。車内はエアコンが効いていてシートは清潔で気持ちが良い。ストレッチはまあ良いとして、せめてTシャツくらいは着替えた方が良かったかもしれない。家を出た時からずっと着っぱなしなのだ。しかし終点まであと1時間、バスは途中では止まらない。登り12時間、下り3時間25分の私の富士登山が終わった。いや、登拝か・・。

2018年8月28〜29日。歩行28.8km 37,402歩。

歩行通算236.5km 307,042歩。

次回は須走口5合目から旧道を下って足柄まで。

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