幸せを求めて?
むかしむかしのお話を。
あるところにチルチルとミチルという兄妹がいた。貧しい生活をしていたので、まだ子どもであったが幸せを求めて旅に出た。アクティブでよろしいが、さまよい歩いてみても幸せは見つからず、がっかりして家へ帰ってきたら探しものはそこにあったという。
人間、足るを知るというのは大切だ。
しかしそんな架空の旅話ではなく、アメリカのジャーナリストで作家のエリック・ワイナーは、人々が最も幸せに暮らす国はどこか?というテーマで世界の国々を訪ねる旅に出た。『世界しあわせ紀行』(早川文庫)はワイナーが訪れた10カ国の訪問記だ。さまざまな人物に会い、インタビューし、カフェで思索する。
果たして「しあわせの国」は見つかるのだろうか?
世界幸福データベース
幸福を学問として研究し、その成果をデータベース化した「世界幸福データベース」というものがオランダのエラスムス大学にある。ディレクターを務めるのは同大学名誉教授のルート・フェーンホーヴェン氏。フェーンホーヴェン教授は幸福研究の第一人者として知られ、多くの研究論文を発表する幸福学の権威だ。

ロッテルダムは港湾都市。
旅のスタートはオランダ。エラスムス大学があるロッテルダムだ。ワイナーの旅にカフェは欠かせない。マイアミからのフライトの疲れを癒やし、一息入れるため街の中心部に宿をとったワイナーはすぐに雰囲気のよいカフェを見つける。
広々として、いかにも居心地の良さそうなカフェだ。高級感があって同時にアンティークな雰囲気も漂わせている。趣のある木製の床は何年も磨かれていないように見える。時間をかけてゆっくりビールを楽しめるような、落ち着いた空間が目の前に広がっている。(本文p15)
ワイナーがカフェで注文したのはトラピストビール。
トラピストビールなるものを注文してみると、常温のビールが運ばれてきた。冷たくないビールは好みではないが、このビールは気に入った。(本文p16)
アルコール度数高めで聖杯型の専用グラスで香りを味わうタイプだ。旅行中のワイナーはコーヒーをよく飲むがビールも好きらしい。
エラスムス大学へ行ってみる
翌日、ワイナーはルート・フェーンホーヴェン教授に会うためエラスムス大学を訪問する。エラスムス大学は1913年に設立されたヨーロッパでも最もレベルの高い教育が受けられる大学のひとつだ。
俳優のロビン・ウィリアムスにちょっと似たルート・フェーンホーヴェン教授と挨拶を交わし、ワイナーはこう切り出した。
まずは、ご自身の話を聞かせてください。幸福学の研究を始めたきっかけは何だったのでしょうか?(本文p21)
教授は快く応じてくれ、社会学を学んだ1960年代の時代背景や幸福を学問として研究しようと考えるに至った経緯を語ってくれる。
幸福について考察することは、古代ギリシャやローマ時代に於いても哲学者たちにとっては取り組んでしかるべき大きなテーマであった。それはまた宗教家にとっても同様だ。しかし哲学や宗教は科学ではない。学問として幸福について研究するには、幸福を論じるための語彙や研究成果を測定して数値化することが求められる。
いったいどうやって幸福を測ればよいのだろうか。幸せというのは感じ方であり、気分であり、人生感である。それを測定するのは困難だ。(本文p25)
しかし、フェーンホーヴェン教授が幸福度を測定する方法はとてもわかりやすいものだった。対象者に向かって、あなたはどのくらい幸福ですか?と質問するというのだ。そして得られるデータは非常に正確なものだという。
幸福学の研究成果がそれなりに正確なものだと仮定すると、そこから何が見えてくるだろうか。どんな人が幸せなのか。自分が幸せになるためにはどうしたらよいのか。(本文p29)
ここで教授の幸福データベースの出番だ。大量に蓄積されたデータによって答えが得られるに違いない。「誰が」ではなく「どこが」幸せなのかが明らかになるだろう。またその理由も。
ワイナーはしばらくロッテルダムに滞在し、幸福データベースを検索する
とはいえ、チルチルとミチルだってさんざん苦労した幸せ探しだ。データベースがあるからといってサクサク仕事が捗るわけではない。しかし、幸せ探しの出発点となったロッテルダムでは、”楽しい日課を繰り返す日々が続いた”とある。
ホテルで朝食をとり、(中略)地下鉄に乗ってWDH(研究室)に向かう。論文や各種のデータに目を通して、とらえどころのない幸福の地図を探す。夕方になると、行きつけのカフェに出かけ(結局、カフェの名前は最後まで覚えられなかった)、生ぬるいビールを飲みながら葉巻をくゆらせる。そして、幸福とは何かについてあれこれ思索にふける。(本文p35)
ワイナーの宿となった「ホテル・ファン・ヴォルスム」は三つ星。
ホテル・ファン・ヴォルスムのすぐそばにあるカフェ Grand Café Wester Paviljoen。本文に店名の記載はないが、こんな雰囲気の店でワイナーはトラピストビールを味わっていたのだろうか?
こうして、数多くの研究事例や論文にあたってみたものの、ずばりコレ!という記述は見つからずもやもや感が残る。
旅の最初にWDHを訪問したのは正解だった。でも、それだけではまだ不十分だということがわかった。(中略)物事には測定できるものとそうでないものがある。(本文p48)
こうしてワイナーの「世界しあわせ紀行」が始まる
ワイナーが次に訪れるのはスイス。今回の訪問した10カ国の中で、幸福度は10段階評価で8.0。7.4のオランダを抜いていちばん幸せな国だ。礼儀正しくて道路がキレイでチョコレートがおいしい中立の国。
ワイナーがスイスで幸せ探しを始めるに際してコンタクトを取った人物は、ニューヨーク出身でジュネーブ在住の友人スーザン。とりあえずふたりが”分別或るヨーロッパ人にふさわしい行動”としてカフェに向かったことはいうまでもない。もちろんビールも注文した。残念ながら銘柄はわからないけれど。
以下、ワイナーが訪れた国は
- ブータン
- カタール
- アイスランド
- モルドバ
- タイ
- イギリス
- インド
- アメリカ
幸福について考えているうちに気分が落ち込んできた。私の不平家仲間の一人であるドイツの哲学者、ショーペンハウアーがかつて述べたように、「自分が不幸だと思っている人は、幸せそうにしている他人を見るのが耐えられない」。(本文p298)
というこうことで、モルドバやイギリスのスラウという町のように”国や町全体が不幸で覆われている”場所も訪れる。
ルーマニアとウクライナに夾まれたモルドバ。当然のことながら、この町がどのくらい多くの不幸に覆われているのかは地図からは読み取れない。
”子供のころ、『クマのプーさん』の中で最も好きだったのはイーヨー”だったというワイナーの文章をじっくり味わいつつ、500頁以上も続く思索の旅は翻訳が素晴らしいことも含めてきわめて上質な読書体験だ。
ところで、私は本書を読んで思いがけなくハッピーな気分になった。
「あっ、そうなんだ!」という記述を見つけたのだ。9番目の訪問国インドでのこと。ワイナーがアシュラム(精神的修行をする所)に到着したときの件だ。
アシュラム内にいる人は、皆、驚くほど落ち着いた表情をしている。追い越しざまに挨拶すると、「ジャイ・グル・デーヴ」という返事が返ってきた。不思議な挨拶だ。これは「偉大なる精神に栄光あれ」という意味だと、後になって知った。(本文p444)
「ジャイ・グル・デーヴ」といえば、♪ジャイ、グルぅ〜、デイ〜ヴぅ〜♪。
そう、ジョン・レノンが歌う「アクロス・ザ・ユニバース」の意味不明な歌詞のフレーズではないか。中学生の頃からずっと気になっていた疑問がここで氷解した。あの頃レコードにはさまっていた訳詞に飽き足らず、ビートルズ訳詩集を買ったにもかかわらず、どの訳を見ても「Jai guru deva om」は「ジャイ・グル・デヴァ・オム」となっていた。
これって訳詞か?発音通りにカタカナ表記をしてもそれは訳詞じゃないだろ!と思っていたのだが、やっと意味がわかった。
というか、正確には「長いことわからないでいたことを思い出した」というべきなのだが。
今回私はエリック・ワイナーと共に旅に出て、帰ってきたら幸せが見つかった。好きな歌の歌詞の意味がわかるというのはハッピーな出来事だ。足るを知るとはこのことか?
Jai guru deva om!
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