【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(14)大山街道 田村道 伊勢原〜藤沢

渋田川から大山 富士山
富士山

第14回 大山街道 田村道 伊勢原〜藤沢宿

伊勢原から一之宮まで

本日のコースは大山道田村道の伊勢原から藤沢まで。前回は蓑毛から大山を越えて伊勢原まで下りてくるきたのでかなりのアップダウンがあった。標高でいうと300m→1250m→36m。今回は伊勢原36m→藤沢13mと行程のほとんどが平坦だ。過去の全コースに比べてもかなりフラットで、坂を上らなくて良いというのは気分的にラクでありがたい。時刻は7:15。どよんとした曇り空の下、伊勢原駅を出て歩き始めた。

大山道田村道(伊勢原〜田村渡し)
三福寺と子の権現

最初のチェックポイントは三福寺。正式には九品山善光院三福寺。院号が善光院というのは本尊の善光寺如来が長野善光寺で鋳造された48体のうちのひとつである事に由来する。山門に向かって左側に位置するのは足腰と旅を守護する子の権現で、草鞋が奉納されている。

旅と草鞋

草鞋は言うまでもなく旅の必需品でもっとも重要なアイテムだ。江戸時代の有名な旅の案内書『旅行用心集』の「道中用心六十一ケ条」の冒頭に、「旅の初日は草鞋の馴染み具合を確かめながら静かに歩くべし(初て旅立の日ハ足を別而静に踏立、草韓の加減等を能試)」と書かれているほか、その後刊行された『江の島まうで浜のさざ波』には「草鞍は旅人の為には甲冑におなじ、価ををしまずよきわらじをもとめはくべし」とも書かれている。 ケチって安物を購入するとあとで後悔する羽目になるという事で、このへんは現代のアウトドア系の装備にも通じる。

それほど重要な草鞋だが、調達は意外と簡単で旅籠や茶屋で普通に買うことができた。街道筋の村でも買えたし、道端にも草鞋売りがいたので入手に困ることはなかった。第9回で江戸時代の旅人は一足の草鞋で3日歩いたと書いたが、谷釜尋徳「近世後期の庶民の旅と草鞋 」によると、一足の草鞋で歩ける距離はおよそ40〜50キロという(これは晴天の場合で荒天時はもっと短くなる)。なので一足で3日は歩くことは出来ず、ほぼ毎日一足ずつ履きつぶしていくというのが平均らしい。

ちなみに草鞋一足の値段は江戸時代後期の場合約15文。これは茶屋で買う酒や餅と同額で、そば(32文)の半分の値段だ。武士の甲冑と同じくらい重要というならそれほど高いものではない。

大山道・日向道分岐

子の権現を後にしばらく進み、原之宿道祖神を目印に左に曲がる。道は矢羽根排水路に向かって一旦下るがまた上る。坂を上りきったT字路の角に大山道・日向道分岐の道標がある。日向道は大山の東側にある日向薬師へ通じる道をいう。日向薬師は高尾山薬王院などとともに武相四大薬師のひとつだ。

道標を右に曲がって道なりに進むと道はゆるいカーブを描いて再び下っていく。八坂神社の石造物群や道祖神を見ながらさらに進むと、周囲は本格的な平野となって左右に田圃が広がった。

渋田川沿い土手道

小田原厚木道路の伊勢原インター跨道橋を渡り、下谷交差点の先から渋田川沿いの土手道を歩く。日が差して青空が広がり、気持が良い。

今日歩くルートも前回に続いて中平龍二郎『キャーッ!大山街道!!』(風人社)の案内にしたがっている。『ホントに歩く大山街道』とセットになった本書は大山街道を歩くには最強のアイテムだ。

渋田川沿いの土手道は約1キロ続く。歌川と笠張川が合流する地点で土安橋を渡り、横内交差点で粕屋通大山道と交差したあと20分ほど進むと相模川に架かる神川橋に到着した。

田村の渡し場と相模川

ここはかつての田村の渡し場だ。田村は大山道田村道と中原街道、八王子道が交差する重要地で茶屋や旅籠もある宿場として栄えた。

相模川の渡し場は、東海道の馬入の渡しのように大規模のものから農民が畑仕事に使う小さなものまで、大小合わせると60カ所以上もあった。田村の渡しは舟4艘で規模としては中くらい。運営は田村宿と対岸の一宮村、田端村が行った。ちなみに当時はダム湖はもちろん堰もなかったので現在よりも水量は多く、神奈川県津久井周辺で切り出した木材や物資を運搬する舟の往来が盛んであったという。

相模川(桂川)は山中湖から富士吉田を通って富士道、甲州街道に沿って流れている。というか道が相模川(桂川)に沿って付けられているため富士講とも縁が深い。禊ぎ場があるのも元はといえば相模川(桂川)の流れが富士山に源を発しているからだ。

河原不動尊と道標

相模川を渡ると次のチェックポイントは河原不動尊。道路の曲がり角にあって目立つため探さなくてもすぐにわかる。『キャーッ!大山街道!!』によると本尊の不動明王坐像は高さ68cm。天明六(1786)年に江戸浅草の大黒屋が造立したものだ。お堂左横に大山不動が載った道標と力石が置かれている。

一之宮

河原不動尊を過ぎると寒川町一之宮にさしかかる。一之宮は寒川神社の門前町として栄えた町で、見るべきものは梶原景時館跡、一之宮八幡大神・石造物群、景観寺など。小出川を大曲橋で渡ると茅ヶ崎市に入った。

高田熊野神社から藤沢宿

大山道田村道田村道(高田熊野神社〜藤沢)
高田熊野神社

高田熊野神社は越前守忠相の父である大岡忠高が紀州熊野神社から勧請して創建したもの。社殿の裏に道祖神などの石造物が並び、境内には日枝神社も祀られている。

赤羽神明神社

きちんと屋根がかけられた六地蔵の前を通り、参道が新湘南バイパスの下をくぐる赤羽神明神社へ寄ってみた。甲州街道与瀬宿の與瀬神社は参道が中央高速の上を通っていたが、こちらは道路の下だ。諸般の事情でこうした形になったものと思うが、変わった参道がある神社というのはやはり気になる。

赤羽神明神社からはしばらく静かな道を進む。Y字分岐にある折戸地蔵を通り過ぎると大山不動一の鳥居が見えてきた。

大山不動一の鳥居と四ッ谷辻

大山不動一の鳥居は万治4(1661)年に建立された。最初は木造であったものが天保11(1840)年に石造で再建され、関東大震災で倒壊したものの近隣の講中の努力によって昭和34(1959)年に今の姿となった。扁額は天狗だ。

四ツ谷辻は東海道との合流(分岐)地点で、街道に面したお堂に火炎を背負った大山不動尊坐像がある。坐像の正面には「大山道」と刻まれ、「従是大山道」と力強く宣言しているようで頼もしい。

国道1号線を渡ると田村道は旧東海道に入る。

旧東海道

四ツ谷辻から白旗交差点までの旧東海道は県道に指定されているが、1963年に藤沢バイパスができるまでは国道1号線で、現在もそこそこの交通量がある。

通りかかるとほんのりワインの匂いがするメルシャン藤沢工場や地元でおしゃれ地蔵と呼ばれる道祖神などを見ながら藤沢宿を目指して歩いていく。

小田急江ノ島線の藤沢本町駅を過ぎて白旗交差点を左に折れ、国道467号線を北に進むと白旗神社に到着した。

白旗神社

相州藤沢白旗神社は鎌倉期以前の創建で寒川神社の寒川比古命を勧請したことに始まり、当初、寒川神社と呼ばれていたものが源義経も祀られたことで白旗神社となった(白旗は源氏の旗)。社紋は笹竜胆(義経)と輪宝(弁慶)だ。

とここまで書いたところで何気なく白旗神社のHPを開いたら、”当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています”と、ひじょうに簡潔に説明されていた。なるほど、縁起だからといって必ずしも重々しく表現する必要はない。義経はたしかに人気者だ。

本殿へ上がる石段の下左側には多くの庚申塔が並んでいて眺めて飽きない。

藤沢宿

東海道へ戻って東へ進む。通りは広々として清潔だ。旧道らしくはないものの土蔵や商家建築が所々に残っていて宿場感はある。

藤沢宿は遊行寺の門前町として発展したため元々にぎやかな町であった。また大山道田村道と江の島道、鎌倉道との分岐点でもあったため夏の参詣時期はたいへんな人出であったと『今昔東海道独案内』にある。

遊行寺橋を渡り、ふじさわ宿交流館でひと休みして時宗総本山の遊行寺へ向かった。

遊行寺

遊行寺は『東海道でしょう!』で杉江松恋が大いに盛り上がったところだ。

もう気分は高揚。嬉しいことに境内に入ると、早くもイベントが待っている。宗祖・一遍上人の立像が出迎えてくれるのだ。(中略)この時点で疲労は極限に達し、足は痛いのを通り越して一ミリたりとも上下運動ができないというぐらいに破壊されていたのだが、それでもスキップしたいほど僕は嬉しかった。だって、夢に見たアイドルがそこに!

遊行寺を訪れるのは初めてなので、こんなふうに書かれるとやはり期待は膨らむ。なにせ“夢にまで見たアイドル”なのだ。いったいどんなお姿をしておられるのか?

期待しつつ長い参道を歩いて境内に足を踏み入れると、遊行寺の本堂はひたすら大きく、それに比して銅像の一遍上人は小柄で華奢だった。この人が宗祖なのか…。捨聖(すてひじり)と称されるに相応しいステキな立像に杉江松恋とは違うテンションながらひとり静かに盛り上がった。

江ノ島道

遊行寺橋へ戻って藤沢駅に向かう。土蔵造りの家が残る旧道を歩き、新道へ戻る交差部にある江の島道標を左に見て商店街を進むと藤沢駅に到着した。

次回は東海道を藤沢から横浜宿まで。

2018年12月8日。歩行30.4km 39,515歩

歩行通算388.4km 503,502歩

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