【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(15)東海道 藤沢〜神奈川

国道1号藤沢バイパス入口 富士山
富士山

第15回 東海道 藤沢宿〜神奈川宿

藤沢宿から柏尾まで

東海道(藤沢〜柏尾)

さて、前回に続いてまた遊行寺へやってきた。12月も半ばとなると少し冷える。凛とした朝の空気のなか、惣門をくぐっていろは坂を上ると、誰もいない広い境内の真ん中に本堂がでんと構えている。遊行寺を独り占めだ。

遊行寺

前回、遊行寺本堂はひたすら大きいと書いたが、今日もその感想はかわらない。本堂はやはりひたすら大きく、そのどっしりとしたシンメトリーは訪れる者の気持を落ち着かせる。

諏訪神社

東門から遊行寺坂へ抜け、道路の向かい側にある諏訪神社へ立ち寄った。諏訪神社は遊行寺を創建した呑海が勧請したもの。道路を渡り返して一里塚跡を確認し、坂を上って国道1号線・藤沢バイパスに合流した。車が行き交う4車線道路の歩道を歩いて行く。

カラーリングがオシャレな戸塚崎陽軒と真新しい六地蔵が並んでいる大運寺の前を通過して原宿浅間神社に到着した。

原宿浅間社

原宿浅間神社には少し期待していた。祭神は木之花咲耶姫命。小高い場所に位置するため、“浅間神社から”富士山が望めるのではと思ったのだ。

しかし近づいてみると参道は少し上り気味ではあるもののはっきり高くなっているとまでは言えず、周囲の住宅が邪魔をして展望は開けない。雲も出ているのでこれはだめだなと振り返ってみたら、やはり富士山は見えなかった。住宅の屋根越しに雲の向こうになだらかな輪郭が見えるような見えないような。富士山の気配はあるのだけれど。

国道1号線をさらに進み、吹上交差点からからバイパスを離れて旧道を戸塚宿に向かって下りて行く。庚申塔、馬頭観音の先の上方見附跡を通過して宿場に入った。

戸塚宿

戸塚宿は本陣2、脇本陣3、旅籠75軒という規模。日本橋から10里18町、小田原から10里7町と、江戸、京都のどちら側から来てもちょうど一日の行程の区切りにあたるため宿泊利用者が多かった。

また、地形的にもふたつの丘陵に挟まれた場所に位置するため、ひと山越えて来た者にとってほっと安心できる宿場なのだ。じっさい私も、藤沢から2時間歩いてきて戸塚の町並みを見た時、ああ着いた!という気持になった。

冨塚八幡宮

冨塚八幡宮は戸塚の地名の起こりとなった神社だ。掲示してある由緒によると、境内にある富属彦命(とつぎひこのみこと)の古墳を富塚(とつか)と呼んだことから冨塚=戸塚の地名が発祥した。全国の戸塚・富塚姓の守護神でもあるという。

ちなみに全国の戸塚さんは約2万人。富塚さんは五千人だ。私の同姓は約七千人。守ってくれる神様はいるのだろうか。

八坂神社

八坂神社は元亀3(1572)年の創建。毎年7月14日の夏祭りで行われる「お札まき」は横浜市指定の無形民俗文化財。姉さんかぶりに襷掛けの女装をした男衆が唱和しながら踊り、団扇で札を撒くというもの。お札は厄除のお守りだ。YouTubeで検索してみたら動画が見つかった。祭りはかなりのにぎわいで、男衆は確かにマジで女装もしている。ビジュアル的にどうなの?と関心がある方は検索を。

澤邊本陣跡を見てJR戸塚駅前を通り、吉田大橋で柏尾川を渡る。江戸方見附跡の先から細い脇道へ逸れて次のチェック・ポイントである柏尾の不動堂を目指した。

柏尾の不動堂

柏尾の不動堂は東海道と大山道柏尾道との分岐点にあたり、堂内とその周りに大山を示す道標が立てられている。

今井金吾『東海道独案内』に、゛堂内には、目を爛々と輝かした不動尊を戴いた、「是より大山道」の大きな道標があり、うしろには「阿夫利神社」が額が掲げてある。゛と書いてあり、例の目ヂカラが強い不動明王像を期待して行ってみたら扉は閉じられて閂がかけられ(3コも!)中を見ることはできなかった。不届き者対策なのだろうか。

柏尾から横浜宿まで

東海道(柏尾〜神奈川)

今回の歩きで使用した地図は、東海道ネットワークの会21『決定版 東海道五十三次ガイド』(講談社+α文庫)と五街道ウォーク・八木牧夫『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(山と渓谷社)の2冊だ。

『決定版〜』を取り出すのは久しぶり。『ちゃんと歩ける〜』の方は甲州街道でお世話になったものと同じシリーズだ。どちらも要点が簡潔に記載されていてわかりやすいが、地図の縮尺に若干物足りなさがあるのでスマホのGPSと併用というのが使いやすい。

品濃坂

環状2号線に架かる品濃坂歩道橋を渡って階段を上ると旧東海道の表示と「品濃坂上」の説明板がある。坂の上から振り返ると大山が見えた。

品濃一里塚

品濃坂の先で道は切り通し状になり、一里塚にさしかかる。品濃一里塚は街道筋によくある土を盛り上げてこんもりさせたタイプではなく、自然地形を利用した富士塚のような形をしている。地元では一里山と呼ばれていたというが、その呼称はグッドネーミングだ。

境木地蔵尊に向かって焼餅坂を上がっていく。

境木地蔵尊

境木地蔵尊は武蔵国と相模国の国境にあり、「武相国境之木」のモニュメントが立てられている。由緒は、鎌倉の腰越海岸に流れ着いた地蔵を江戸へ運ぶ途中ここで動かなくなったのでお堂を建てて祀ったところ、遠方からも参詣者が訪れて村が栄えたというもの。名物はぼた餅(焼餅)。地蔵尊の隣にある立派な建物は立場茶屋であった若林家だ。

権太坂

境木地蔵尊を後に権太坂へむかう。坂の手前の高台からは大山が遠望できる。富士山も見えるはずだがこの日は確認できなかった。江戸時代なら海もよく見えたはずだが、現在は住宅が建て込んでいるしそもそも海岸線自体が遠くなってしまった。

権太坂の名前の由来はあちこちで紹介されている。今更感もあるけれど簡単にいうと、昔旅人が土地の人に坂の名前を問うたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い、「へい権太と申しますだあ」と答えたというもの。杉江松恋は『東海道でしょう!』で、おなかに袋のある動物の名前を西洋人に聞かれた現地の人が「わかりません」という意味で「カンガルー」と答えたら正式名となったとか(俗説らしい)、そういう類いですね。と言っている。

保土ヶ谷宿

坂を下りきって元町ガード交差点を右に折れる。稲荷神社、樹源寺を通過すると保土ケ谷宿の上方見附があり、保土ケ谷宿へ入っていく。外川神社の前から移築された上方見附跡は土居の石垣がしっかり復元されていて「ふむふむ」の素だ。

保土ケ谷宿は本陣1、脇本陣3,旅籠67軒。隣の戸塚宿は、江戸を早立ちした者の宿泊にちょうど良かったが、当然そうでない旅人も大勢いたわけで、出発が遅れたり権太坂を前にして足腰に不安がある者や女性にとっては保土ケ谷宿が最初に泊まる宿場となった。

宿場は保土ケ谷町、岩間町、神戸町、帷子町の四町で構成され、江戸中期まで帷子町の帷子橋近くまで海が入り込んで河港を形成していた。内陸の物資を神奈川湊へ積み出す港町として賑わったという。

金沢横町道標

保土ヶ谷橋手前の本陣跡前交差点を左に折れて東海道線の踏切を渡る。小さな交差点の手前、通称金沢横町に道標が4基並んでいる。金沢・浦賀往還への分岐点だ。右から順に「円海山之道」「かなさわ、かまくら道」「杉田道」「富岡山芋大明神の道」。金沢八景や杉田梅林方面へ行くにはこの角を曲がった。

相鉄線・天王町駅のガードを潜って帷子川を渡り、大勢の人出で賑わう松原商店街を通り抜けて西区浅間神社へ向かった。

西区浅間神社

西区浅間神社は浅間町一丁目の小高い山の上に祀られている。この山は浅間山と呼ばれて山全体が芝生(しぼう)富士という富士塚になっている。

浅間山の中腹にはかつて「富士の人穴」があり、この穴が富士山西麓の人穴に通じていると言われて『江戸名所図会』にも描かれる観光名所になっていた。西区浅間神社と芝生富士については、有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』(講談社)の「横浜から富士山麓にワープする/西区浅間神社の浅間山(芝生富士)」に詳しい。

神奈川宿

首都高速神奈川線の下を潜り、坂道の旧道を下りていく。宿場の範囲を示す見附のような遺構はないが、このあたりからが神奈川宿エリアだ。

神奈川関門跡

坂の途中にあるのは神奈川関門跡の碑。この関門は横浜開港後の外国人の身の安全を図るため幕府が設置したもので神奈川宿には東西2カ所に設けられた。

料亭田中屋

田中屋は文久3(1863)年の創業。坂本龍馬の妻・おりょうが勤めていたことで知られる料亭だ。おりょうは30代の数年間、勝海舟の紹介でこの店で仲居として働いていた。当時このあたりは街道のすぐ際まで海が迫り、店の欄干から釣り糸を垂らすことができたという。

田中屋の脇に階段があるので下まで下りてみた。見上げるとかなり高低差があるのでなるほどと納得。広重の『東海道 神奈川』では店のすぐ裏手を航行する船が描かれているので、このくらい水深があってちょうど良い。

大網金比羅神社と本覚寺

田中屋の先をさらに下り、大網金比羅神社と幕末にアメリカ領事館として使われた本覚寺に立ち寄り、帰途につくべくJR線東神奈川の駅に向かった。本日の予定はここまで。二つの丘陵を越えての30キロ歩きはなかなかハードだった。

次回は神奈川宿から川崎宿までの20キロ。遅遅としてはかどらない「平成富士山道中記」もやっと最終回まで漕ぎつけた。これほど時間がかかるとは想定外だったけれど、the show must go on なのだ。

2018年12月15日。歩行33.4km 43,259歩

歩行通算421.8km 546,761歩

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