【平成富士山道中記】富士山まで歩いて登りに行ってきた(16)最終回 東海道 神奈川〜川崎

ヘボン記念碑 富士山
富士山

第16回 東海道 神奈川〜川崎

東神奈川から生麦まで

12月24日。晴天の朝、JR横浜線東神奈川駅から歩き始めた。「富士山まで歩いて登りに行ってきた」最後の歩きだ。最初に10日前立ち寄った本覚寺へ向かう。前回の本覚寺は年末のすす払い作業中で何かと落ち着かなかったための再訪だ。

本覚寺(アメリカ領事館)

本覚寺は安政6(1859)年、アメリカ総領事ハリスが横浜港を一望できるロケーションを気に入って領事館とした。境内の松の木の枝を下ろしててっぺんに星条旗を掲げ、山門には白ペンキを塗ったという。いささか乱暴に思えるが実話だ。また生麦事件で刀傷を負ったイギリス人が助けを求めて駆け込み、治療を受けた場所でもある。

『東海道でしょう!』で杉江松恋が神奈川宿の章題を「港町は意外なことにお寺の町でした」としているように、神奈川宿には立ち寄るべき寺院が多い。本覚寺はアメリカ、慶運寺はフランス、浄龍寺はイギリスと各国の領事館に用いられ、開国の歴史と結びつきが深い。

普門寺(イギリス士官宿舎)

文治3(1187)年開山の普門寺は真言宗智山派の寺院で山号は洲崎山。洲崎山というのは当寺がもと洲崎大神の別当寺であったことによる。横浜開港当初はイギリス士官の宿舎に充てられた。

宗興寺(ヘボン診療所)

旧東海道から第一京浜に出て滝の川手前を左に曲がり宗興寺へ向かう。宗興寺は宣教師・医師でありヘボン式ローマ字の考案者であるヘボンによって診療所が開かれた所だ。ヘボンの住まいは滝の川を挟んだ向かい側にある成仏寺。

ヘボン

ヘボンことジェームズ・カーティス・ヘプバーンは、布教と医療奉仕を目的として安政6(1859)年10月、ニューヨークから妻クララを伴って日本へやって来た。

ヘボンの姓はスコットランド系の「ヘップバーン Hepburn」だが、当時の日本人はうまく発音できず「へぼん」と訛って呼んでいた。しかし呼ばれた本人はとくに嫌がることなく訂正もせず素直に受け入れ、自らも「ヘボンでござります」と名乗り、時には「平文」と漢字で署名することもあったという。(望月洋子『ヘボンの生涯と日本語』 新潮選書より)謹厳実直ながら気さくで親しみやすい人柄であった。

ヘボンは日本で最初の和英辞典『和英語林集成』を刊行し、聖書の日本語訳をおこなったが、この業績はヘボン式ローマ字ほど知られてはいない。

ヘボンの『和英語林集成』が発行されたのは慶応3(1867)年4月。見出し語20,772語、700ページ、厚さ5センチという立派なものであった。

洋紙を使用したため日本では刷ることができず、上海で印刷して日本へ運んだ。値段は一部18両とおそろしく高価で発刊当初の売れ行きは芳しくなかったが、やがて洋学振興の重要性を知る諸藩が競って購入した。『和英語林集成』は「和英」と冠されていても、和英・英和両用辞書として英語学習に最適であったためだ。3年間で初版を売り切り、その後改訂しながら版を重ねてヘボンの辞書は明治期のベストセラー本となった。

内容の一部を見てみると、例えば「粋な」という表現の「イキ」

Iki、イキ、Elegant, stylish, genteel, refined. Ano onna __da.  __ ni natta,  __demo yabo demo kamawa nai. 

細かいニュアンスがきちんと説明されてヘボンの日本語に対する理解の深さが窺われる。「粋」というコトバを収録語に選定したこと自体も含めてgood job。しかも来日してわずか7年7ヶ月という短い期間で、これほど高いレベルの辞書を作り上げたのだからまさに偉業というほかない。

ヘボンの『和英語林集成』は講談社学術文庫や復刻版で見ることができるが、明治学院大学図書館デジタルアーカイブスで全ての版が閲覧可能だ。見ていると「へえ」と「なるほど」の連続で時間を忘れる。

浄瀧寺(イギリス領事館)

イギリス領事館であった浄龍寺は山号妙湖山と称する日蓮宗の寺院。文応元(1260)年、当山の尼僧・妙湖上人が安房から鎌倉へ向かう日蓮聖人の教えを受けて弟子となり、法華経の道場を開いたのが始まりだ。山門の横に神奈川宿歴史の道の銘板と解説がある。

慶運寺(フランス領事館、浦島寺)

慶運寺はフランス領事館として用いられた寺院。浦島太郎が亡き父の菩提を弔うため建てた観福寿寺を合寺したことで浦島寺とも呼ばれている。

浦島太郎は竜宮城の乙姫から観世音菩薩像と玉手箱を授かり、その観世音菩薩像が慶運寺の観音堂に祀られている(玉手箱は行方不明)。通常は非公開だが十二年ごとの子歳開帳の期間は拝観ができる。

高札場

ヘボンら外国人宣教師が住んでいた成仏寺の先に横浜市神奈川地区センターがあり、敷地内に高札場が復元されている。傍に設置された説明板によると、当時の規模は間口5mで高さ3.5m、奥行1.5というもの。甲州街道・府中宿の高札場も立派だったがこちらも同等の規模だ。

熊野神社

高札場の一区画先にあるのは熊野神社。平安末期に普門寺近くの権現山(幸ケ谷公園)に建立され、江戸中期に道を挟んだ金蔵院境内に移ったのち神仏分離令で今の場所に落ち着いた。高札場の方から歩いて行くと境内へは横から入る形になる。

前回紹介した有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』に「七富士参りルポ 横浜の先達を追っかけてみた」という章があり、この熊野神社が登場する。横浜丸金講という富士講の七富士参りの起点と終点が熊野神社なのだ。熊野神社に富士塚はないが、富士講とは縁が深いという。

ちなみに横浜丸金講がお参りする富士塚は、1熊野神社、2小机富士、3東本郷富士、4熊野堂富士、5中村富士、6羽沢富士、そして前回訪れた西区浅間神社の7つ。

笠䅣稲荷神社

笠䅣(かさのぎ)稲荷神社は天慶年間(938~947)の創祀。元寇の際に北条時宗が神宝を奉納したという古社だ。笠䅣とは「笠脱ぎ」のこと。社殿の前を通る者の笠が自然に脱げることから笠脱稲荷大明神と称されたのち笠䅣稲荷神社に改称された。これも「神奈川宿歴史の道」の解説板に記されている。この解説板にはどれもみな図版が添えられ当時の様子がよくわかる。

良泉寺

良泉寺の山号は海岸山。海を望む街道沿いに位置していた。ロケーションが良かったせいか開港に際して外国の領事館に充てられることになった。しかし時の住職は本堂の屋根をはがして修理中として幕府の命令を拒んだというエピソードが残っている。

長延寺跡と江戸口見附

良泉寺を後にすると、神奈川東通公園という児童公園に到着。オランダ領事館であった長延寺と江戸口見附の土居があった場所だ、おりょうさんがいた田中屋のあたりから2キロほど続いた神奈川宿とはここで別れ、しばらく第一京浜の広い車道を淡々と歩く。

生麦から鶴見神社まで

生麦事件の碑

30分ほど進むと首都高速神奈川7号横浜北線沿いのキリンビール横浜工場・レストランビアポート前にある生麦事件の碑に到着する。

生麦事件が起きたのは文久2(1862)年8月。騎馬の英国人が東海道で薩摩藩の島津一行と遭遇し、下馬の礼をとらなかったため無礼打ちされた。死者1名と重傷者2名を出して政治問題化し、その後薩英戦争を引き起こした。

騎馬の英国人とはマーシャル、クラーク、リチャードソンの3人とマーシャルの従姉妹マーガレット。横浜の居留地から川崎大師見物に行く途中でのアクシデントだ。

もっとも傷が深かったのはリチャードソンで、脇腹と肩を切られ現場を離れる途中で息絶えた。マーシャルとクラークは重傷を負いながらも本覚寺へ逃げ込んでヘボンの治療を受けて一命を取り止めた。マーガレットは怪我はなかったものの帽子を刀で飛ばされて髪を切られ、半狂乱で居留地まで逃げ帰った。間一髪とはこのこと?ヘボン来日3年目の出来事だ。

ちなみに旧道にある「生麦事件発生現場」から本覚寺までGoogleマップで測ってみると5.2km。さらにGoogleで馬の走る速度を検索してみると、駈歩(かけあし)は分速340メートルほどとある。単純計算で本覚寺まで15分。深傷を負った外国人を乗せた馬が街道を駆け抜けていく光景はさぞかし道行く人々を驚かせたことだろう。この計算に全く自信はないが、どうなんでしょうね。

JR国道駅

旧道を鶴見に向かって歩いていく。道念稲荷神社前を通って鮮魚店が並ぶ魚河岸通りを進むとJR鶴見線の高架が見えて来る。

国道駅があるこの高架下は昭和ド真ん中の空間残っている場所として一部マニアの間で有名だ。映画やドラマのロケにも使われた。覗いてみると、確かにこの一画だけ濃厚な昭和の空気が漂っている(ような気がする)。

国道駅の先の下野谷町入口交差点で第一京浜を横断し、京急鶴見駅を通り過ぎて進むと左手にあるのは鶴見神社だ。

鶴見神社と富士塚

鶴見神社は推古天皇時代の創建で川崎・横浜間最古の神社とされる。

鶴見神社本殿の後ろ側には富士塚があり、山頂に浅間神社が祀られている。立派な石段と鳥居、狛犬、講碑が見える。ほかにも色々ありそうだが、鍵のかかったフェンスでガードされているため近づくことはできない。神社の横にある歩道橋へ上がると富士塚全体を眺めることができる。

鶴見神社から稲毛神社まで
鶴見橋関門跡

さらに旧道を川崎に向かって進む。鶴見神社から先は真っ直ぐの道路が続き、遠くに鶴見川橋が見える。橋の手前右側には鶴見橋関門の跡。

関門跡の解説によると、安政6(1859)年の横浜開港後、幕府は横浜の外国人保護のため東海道に関門を設けた。生麦事件が起きてからは、警備をより厳重にするため保土ヶ谷~川崎間に20箇所の関門を設置。鶴見橋関門は川崎側から数えて5番目の関門だ。

関門増設のおかげで不安が少なくなったとしたら、横浜居留の外国人はクラークたちに感謝するべきだが、関門の効果のほどはこの解説には書かれていない。刀で帽子を飛ばされたマーガレットはその後どうなったのだろう。

鶴見川橋

鶴見川橋は江戸時代に東海道が整備された当初から架けられていた橋。何度か流されながらも(6回!)その都度架け替えられて東海道のインフラを支えた。「釣海橋」「鶴見橋」「鶴見川橋」と何度か名前を変えて現在に至る。

下町稲荷、馬頭観音堂、市場一里塚跡(江戸から5番目)を見ながら横浜熊野神社の前を通り、横浜と川崎の市境である市場上町交差点を越えて川崎市に足を踏み入れた。

芭蕉句碑

八丁畷駅の踏切を渡り、芭蕉句碑にさしかかる。この句碑は元禄7(1694)5月に芭蕉が故郷である伊賀上野へ帰る際、弟子たちと別れを惜しんだ「麦の別れ」を詠んだもの。芭蕉はこの年秋に生涯をとじた。

句碑は元々川崎宿の京口見附付近に建てられていたが、数回の移動を経て八丁畷に落ち着いた。ゴールはまだ先なのだが、このあたりまで来ると旅も終わりに近づいた気がする。あともう少し。

稲毛神社

500mほど歩いて京口見附を越えて宿場に入った。川崎宿は2018年の冬から春にかけて何度も歩いた場所なので宿場の地図は頭に入っている。小土呂橋交差点で新川通りの広い通りを渡り、古書店近代書房の先から桜新道、平和通りを通って旧東海道をショートカットするように稲毛神社へ向かった。

急ぐ必要はないにもかかわらず、歩く速度が自然と早くなってしまう。やはりゴールを意識しているからなのだろう。市役所通りをまたぐ大きな歩道橋の階段を下りると、正月の準備を整えた稲毛神社に帰り着いた。

どっと感動がこみ上げてくるかと思ったが気分は意外と平静だ。普通に境内を歩いて浅間神社の前まで行って手を合わせた。ひとまわりしてきました。

富士講の足跡を辿ってみたいと思って始めた『富士山まで歩いて登りに行ってきた』がここで終わった。富士山を0合目から登ったのは初めてだ。

富士講の道中をロング・トレイルに喩えると、彼らの旅はスルーハイクだ。ワン・ウェイで一気に歩く。しかしセクションハイクを重ねてひとまわりするのも悪くない。富士講が感じたであろう旅感はそれでも十分に味わうことができる。

2018年12月24日。歩行20.4km 26,458歩

歩行通算442.4m 573,219歩

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