大福発祥の地は江戸小石川?大福のルーツと歴史

和菓子
大福の定番「豆大福」

『鮎菓子はどこからやって来た?』に続いて今回は大福。

大福は鮎菓子のように形を成形したり焼き目をつけたりしないぶんだけシンプルと言えるかもしれないが、作り手の思いによって仕上がりがいろいろ変わってくる点は同じだ。

粒あん、こしあん。求肥、餠。大きさ。形。フルーツを入れたり生クリームを使ったりと店によってこだわりたい部分もさまざま。食べておいしく眺めても楽しいこの大福の考案者はいるのだろうか。大福の歴史とそのルーツを調べてみた。

大福の歴史はおた福餅に始まるらしい。

おた福餅は江戸期の随筆集『宝暦現来集』(1831)に記述があり、同書によると明和八年の冬、小石川御箪笥町の ”至て貧しき後家暮らしのおたよと申す女商人なる” が白い餅に塩あんをいれて売り出したのが始まりとされている。塩あんは砂糖を使わない塩味のしょっぱいあんのこと。

その後、砂糖を入れて甘みを加え、腹ぶと餅と名前を変えた。

さらに寛政年間の中頃に腹ぶと餅を温めて大福餅と名付けたところ評判を呼んでヒット商品になったという。腹ぶと餅を温めることを思いついたのがおたよさんかどうかはわからない。

その一方で、『宝暦現来集』と同時代に書かれた『嬉遊笑覧』(1830)では、鶉(うずら)焼がそのふっくらした形から連想して腹ぶと餅もしくは大福餅と呼ばれていたが、後に形を小さくして砂糖を加え、こし餡を包んだものが大福餅として定着したとされている。

鶉焼は室町後期からある鶉餅(塩餡を入れてまるい形にしたもの)を焼いたり焼きごてを押したりしたもので、食べ応えがあることから腹ぶと餅とも呼ばれていた。

満腹→腹が太い→大腹→大福。福を呼ぶというイメージでいっそう人気が出たというのは説明としてわかりやすい。上の図「大ふくもち」売りは年末の日本橋の光景で、屋台で大福を温めて売っている様子が描かれている(『江戸名所図会』「国立国会図書館デジタルコレクション」より)。

いま手元に中山圭子『事典 和菓子の世界』(岩波書店)という書籍があって和菓子の来歴やエピソードが書いてあるのだけれど、同書には腹ぶと餅に関してさらにこんなことも記されている。

とくに注目したいのが黄表紙『五人斬西瓜立割』(1804)だ。主人の宝物を盗まれた腹太餅(擬人化され、頭に腹太餅を載せている)が責任をとって、杉楊枝で切腹する場面が描かれており、記述から、当時の中身は黒砂糖餡だったことがわかって興味深い。

(上掲書 p88〜89)

中山圭子氏は和菓子の研究者なので黒糖や白糖の用いられ方に着目しているのだが、腹太餅という名前から切腹する役回りにしたのか作者の山東京伝に聞いてみたいところだなんていうことも言っている。腹太餅が楊枝で切腹するという展開は爆笑モノで、白くふっくらした腹に楊枝を押し当てるシーンが目に浮かぶ。

ところで、自分の不始末を死んで詫びようとする展開は、あんこ→砂糖とつながって狂言の『附子』を連想させるが、『附子』が下敷きにされていることは当時の暗黙の了解なのだろう。太郎冠者が舐めたのも黒砂糖だったはずだ。違ったかな?

おたよさんが塩あんを入れた餅を売り始めた小石川御箪笥町は現在の文京区小石川と小日向のあたりで、春日通りを挟んで互い違いに向き合っている。最寄りの駅は東京メトロ南北線茗荷谷だ。

春日通りは広い4車線の大通りで小石川御箪笥町と呼ばれた頃の面影はなく、おたよさんの子孫が経営する和菓子屋なんていうのももちろんないけれど、『江戸切絵図』に記載されている徳雲寺は今も同じ場所にある。

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